悲しみのカツオ

Re:write vol.14 / text by Riken Komatsu

 

再開したカフェUluruから実家へ帰るのに、久しぶりに小名浜港の前を車で通った。根元から曲がった信号には相変わらず電気が通わず、道路はあの日の歪みのまま、放置されている。あの山のようなガレキは撤去されたものの、そのおかげで「被災地」の非日常の景色は消失し、今はただ、抜け殻の町が、時を刻むのを忘れた古い時計のように静かに横たわっている。港に打ち上げられ腐敗した魚たちを狙っていたカラスの姿も少なくなり、カーウインドウを開けても、カモメの鳴き声ひとつ聞こえてこない。埃の混じった風だけが、びゅーっと音を立てて通り過ぎていくだけだ。小名浜の港に、漁火が戻る日はくるのだろうか。

 

そういえば、311以降、まともに魚を食っていない。ちょうど今はカツオがうまい時期で、例年なら毎日のようにカツオを食っていなければならない。うちの母がわざわざ青森からいいニンニクを取り寄せているのも、カツオの刺身を最高においしく味わいたいからだ。何しろカツオはニンニクに限る。肉厚の刺身を、ニンニク醤油につけるときの喜び。その旨みをビールで流し込むときの幸福。母の顔を見て、僕も小名浜の味を覚えた。刺身が余ったらニンニク醤油に漬け込んで、焼いたり、竜田揚げにしたりする。「今日もカツオかよ!」と思ってはじめて、小名浜の夏を味わったことになるのだ。それなのに、カツオを食っていない。こんな異常なことが、あっていいのだろうか。

 

海の男たちは、今日も海へ出ている。ところが、小名浜に魚を水揚げしてしまっては「福島産」として市場に流通してしまう。オホーツクで獲っても、三陸沖で獲っても銚子沖で獲ってもそれは同じ。小名浜の船は、小名浜に帰ってくるものだ。でも、復興の灯火を、港に点すことができない。小名浜で水揚げすれば、多くの人に拒まれてしまうことはわかりきっているから。海の男たちは、どんな気持ちで海に出、どんな気持ちで県外の港を目指すのだろう。「放射能で汚染された魚は、汚染された福島の人間が食えばいい」。そんな言葉が聞こえる今の今も、男たちは太平洋の藻屑となることも辞さない悲壮な覚悟で、海と闘っている。

 

 

震災後、半月ほど経ったときのことだったろうか。永崎海岸の浜辺に集められたガレキの中に大漁旗を見つけた。海に出られない漁師が将来を悲観して捨てたのだろうか。それとも、被災した漁師の家から流れ着いたものだろうか。立派な、そして切ないほど鮮やかな色をした大漁旗だった。僕は、その大漁旗を、友人と運営するスペースに持ち帰り、保管することにした。「いつ漁が再開してもいいように、インターネットで持ち主を探したらどう?」なんて盛り上がっていたのを覚えている。4ヵ月後には復興の漁火が灯っているだろうと信じていたのだ。そして、カツオ漁の最盛期を迎えようとしている4ヵ月後の今、その旗の持ち主を探すことにどれほどの意味があるのか、よくわからなくなってしまった。

 

カーステレオからは、鬼の『小名浜』が聞こえてくる。震災後、この曲を何度聴いただろう。―小名浜の汽笛を背に受け、港へ向かえ… でも今の小名浜港に、漁船の汽笛が響くことはない。抜け殻の港は、ただただ心にぽっかりと空いた穴のように、どこまでもどこまでも「喪失」の色を宿している。悲しみや怒りさえ、なくなってしまったのだろうか。この港の通りに、昔の賑わいが戻ることはない。その事実だけが、大きな岩のように行く先を阻んでいる。活気が戻った新しい港町の姿を想像することもできず、僕はただ前を向いて、その岩をぶち壊そうとアクセルを踏み込んだ。地震でできた大きな溝に前輪が入り込み、車が大きく弾んだ。ズボンの上に落ちた涙の粒を見つけて、現実に引き戻された。

 

実家へ帰ると、母が夕食の準備をしていた。テーブルの上には、いつもの夏のように、インゲン豆やナスの天ぷら。冷えたビールの缶には細かな水滴がいくつもついて、コップに注がれるのを待っている。母は台所に立ち、スーパーで買ってきた半身のカツオを捌いている。そして僕に、「ニンニク、すっといて!」と一言。これが小名浜の夏じゃないかと、一瞬うれしくなった。けれど、母がポツリ。「千葉の、なんだけどね」。今年62歳の母が生きているうちに、小名浜のカツオの刺身を食わしてあげたい。でも、そんなささやかな夢さえも今はただ悲しい妄想なのかもしれないと、僕は静かに千葉のカツオに箸を伸ばした。大漁旗のことが頭に浮かんだ。カツオは少し、悲しい味がして、そして、うまかった。

 

2011.7.4 up

文章:小松理虔(tetote onahama編集部)

 

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