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SUPERLOCAL 011 / talksession

対談:ナカジマシゲタカ×アサノコウタ×untangle.

小名浜に産み出す「余白」


text by Riken KOMATSU / ▲photo by ichinosuket

写真左端 / ナカジマシゲタカ  Shigetaka NAKAJIMA

1984年長野県生まれ。横浜在住。 05年より東京でライブペインターとして活動を続ける。Butterfly Under Flaps.所属。慶応大学SFCにて建築設計を学び、現在は伊東豊雄建築設計事務所に勤務。震災後から小名浜と関わっており、untangle.と「オクリエ」などを残している。

左から2人目 / アサノコウタ  Cohta ASANO

建築家。1983年福島市生まれ。慶応大学SFC政策・メディア研究科修士課程卒業。卒業後に地元の福島市に戻り、「建築以下のデザイン」をコンセプトにしたBHISを設立。プロジェクトFUKUSHIMA!など数多くのプロジェクトに携わり、数々の作品を世に送り出す。

右から2人目 / untangle. a.k.a からみほぐし研究所

ドローイングアーティスト。1982年いわき市小名浜生まれ。オルタナティブスペースUDOK.で日々の制作を行いながら、ライブペインターとして県内外のイベントなどでも「からみほぐし造形」をテーマにした作品を残す。本業は市内のゼネコンに務め建築設計に仕事に従事。

 

いわき市小名浜のオルタナティブスペースUDOK.で開かれたトークイベント「OSCMTG2」第3部に、「福島」と「建築」に関わる3人のクリエイターが集まり、震災と建築について縦横無尽にトークを繰り広げた。震災直後から小名浜の「オクリエ」などに参加してきたナカジマシゲタカ、福島市でプロジェクトFUKUSHIMA!などに携わるアサノコウタ、そして小名浜在住のドローイング作家untangle.。ショッピングモール、即興建築、エネルギー、まちづくり・・・。建築の仕事に携わる3人が酒にまかせて繰り広げる「放談」の中に、小名浜の、福島の未来が見えてきた。

 

(ナビゲーター:小松理虔(tetoteonahama))

 

―シロウトが理想の「場」をつくる

 

小松:アサノくんは「建築以下の設計」という、建築家ではなく、むしろ市井の人たちが設計できるスケールまで落としこんだ建築のコンセプトで活動しているわけだけれど、小名浜ショッピングセンターや名店街はどう映った?

 

アサノ:印象的だったのは、若手のリーダーだった小泉さんという男性の存在ですよね。その小泉さんが、ある種カリスマ的な存在になっていて、彼によってショッピングセンターの完成が導かれるという話でした。でも、これからのまちづくりは、カリスマ1人だけでは達成できないと思います。カリスマではない、ぼくらがみんなでつくる建築のなかに、これからの時代のヒントがあるような気がしています。

 

ナカジマ:小名浜もイオンがきますが、シネコンが入るような巨大な施設を今の小名浜という町に馴染ませるのはとても難しいと思います。ただ、ハードについて口出しができなくても、ソフト作りには携われます。まちづくりって、どこも「トップダウン」だとうまくいかない。下からの「ボトムアップ」がないと。

 

小松:下からのボトムアップという意味では、山崎亮さんとかがやっているのがそこに近いかもしれないけど、建築家として最初から「ボトムアップ」を見込んだ設計をしている人はいないのかな。

 

アサノ:それを建築に求めるのは難しいですね。だから、そこでUDOK.がどう動くかみたいな話になってくる。

 

untangle.(以下unt):「いわき回廊美術館」がとても参考になると思う。あそこは図面もなければ、建築家も関わっていない。なのに、あんなに魅力的な場ができている。とてもすごいことなんだけど、でもそれって建築家が関わってないからこそかもしれない。一方、アクアマリンふくしまは対照的で、コンクリートの埠頭だった場所に、人工の砂浜や田んぼや畑をつくり、館内外に多様な生物が生き、人の回廊と生物が棲む環境をほぼすべて人工的に作っているわけですよ。敷地内で完結した人工環境を作って、それをカネとエネルギーでもって維持している。

 

ナカジマ:それはけっこうモダニズム的だってことですよね。たんさんはそれがあまり好きじゃないってことですか?

 

unt:いや、両方あるから面白いと思うんだ。アクアマリンみたいな場所に子どもたちも喜んで行くでしょ。遊び方も呈示されててゆっくり安心して遊べる。しかも、震災にも耐えて残っている。一方で、回廊美術館は建築家もいないし仮設的。農家のおっちゃんが勝手に作ってるんだけど、山には残された木々があって、舞台の背景に街や田んぼが広がって、空があって山があって…と、そこの環境に建物が挿入されて初めて1つのきれいな風景を作っている。アクアマリン的なもの、回廊美術館的なもの、その両方があって面白いんだと思う。↗

アクアマリンふくしまは、日本設計の淺石優による設計。
アクアマリンふくしまは、日本設計の淺石優による設計。
「いわき回廊美術館」。山の中に即興的にしつらえられている。
「いわき回廊美術館」。山の中に即興的にしつらえられている。

 

アサノ:つまり、建築の話だけじゃダメという話ですよね。回廊美術館みたいな建築も、おさまりとか気になる建築家の人が見たら「こんなの全然ダメだ」となる。建築の視点って限られたものでしかないんです。これから大事なのは「一般的な視点」のほうですよ。

 

unt:一般の人からしたら、回廊美術館って「建築物」とかいう認識じゃない。もはや建物を超えたところで「場」が評価されていて、それがとても面白いと思うんです。それも手伝って、今度の芸術祭では小名浜の子どもたちと一緒に仮設美術館を作ろうというアイデアにも繋がりました。イメージはぼくが作って、作り方をアサノくんに考えてもらうような形を考えています。

 

アサノ:そこで大事なのは、みんなの視点を理解することだと思うんです。つまり「ポップであること」が鍵を握ってくる。建築が好きな人ってコアな人が多いでしょ。音楽は好きだけどポップミュージックは聴かない、みたいな。でも、そうじゃなくて、オリコンの1位にも理由があるわけで、なんで日本で一番聞かれてるのかって理由を突き詰めていかないと。

 

小松:なるほど。カチっとした図面を完璧に仕上げるのではなく、むしろ使う人だったり、一般の人たちの意見をどう取り入れて、変化させていく。そこには、使う人とのコミュニケーションが必要になる。それが、建築家の果たすべき役割になっていくのかな。↙

 



―「原っぱ的」な余白のある建築

 

unt:アクアマリンと回廊美術館を考えたとき、一般の人が入り込める余白があるのは回廊美術館です。まちづくりも、回廊美術館的なほうがいい。「囲い込み」的なトップダウン方式で、ここからここまではこれこれ、というふうに最初から決めうちでコンテンツを作り込んでいくのも1つの方法だけど。

アサノ:青木淳さんの『原っぱと遊園地』の考え方にわりと近いですね。わかりやすく言うと、建築には「原っぱみたいな建築」と「遊園地みたいな建築」があると。遊園地は、ジェットコースターに乗ったらジェットコースターの遊びを満喫できる。逆に、原っぱっていうのは何をしてもいいし、何も用意されていない。自分なりに見つけないといけない。↗

 

富山県の「高岡おとぎの森公園」には『ドラえもん』の空き地が再現。
富山県の「高岡おとぎの森公園」には『ドラえもん』の空き地が再現。
小名浜のイオンモール計画。冗長性をどう取り入れていくのか。
小名浜のイオンモール計画。冗長性をどう取り入れていくのか。

 



unt:『ドラえもん』に出てくる「空き地」に土管がありますよね。土管って「完全な自然」じゃなくて、建築途中の場所だったりとか、誰かが手を加えているわけですよ。だからこそ「余白」が生まれるんです。100%な自然って、逆に遊ぶのが難しいじゃないですか。今の世の中では、土管のある「空き地」的なものって排除される傾向にありますけど、とても残念です。

小松:なるほど。両極端に振り切れてるわけじゃなくて、余白があるというのが大事なんだなぁ。たしかに大自然で自由に、と言われたほうが逆にハードルが高そう。

 

unt:そうそう。例えば、有名建築家とか一級の職人さんだけで囲い込んだら、スカイツリーみたいなものはできるかもしれないけど余白はない。「建築以下」だったら100円ショップで売られているもので空間が作れる。小学生だって建築家になれるわけですよ。


ナカジマ:さっきの土管の話みたいに、はじめから「ぜんぶ自由にやっていいよ」と言われたら難しい。やっぱりコウタのような「指揮者」が必要になってきますよね。どう余白を作るのか。その余白をどうコントロールしていくのか。その「ルールづくり」に建築家の存在価値があるような気がしますよね。

小松:イオンも、どこの自治体に行っても歓迎されず「黒船」のような扱いを受けているなかで、当然市民とは仲良くなりたいはずなんだよね。だから、市民が関われる余白もないわけではない。ただ、市民だけでは立ち向かえないから、そこで、建築家が「指揮者」として入っていく。建築家がどんどんまちづくりに入っていって欲しいな。 

ナカジマ:それには、まずイオンに「遊びの部分」を残しておかなくちゃいけない。リダンダンシー、つまり冗長性の話にもなってくると思います。すべてカチっと決めてしまうと、なにかあったときに対処できなくなります。遊びの部分があることで、一見効率が悪いようにも思えるんだけれど、結果としては全体が効率的に動いていくと。

小松:その遊びの部分で、小名浜がどう動いていけるのか。↙

 


 

―まちとモールの間の「中間領域」

ナカジマ:リダンダンシーのある空間を作っていくには、「決めすぎない」ということが大事だと思います。例えば、伊東事務所でもやったことなんですが、木の格子を作るときに、釘で止めてしまうと、木の伸縮でバキっと折れてしまうことがある。そこで、伸縮や動くことを前提にレールを作って動かせるようにしたんです。すると、余白の部分で木が動くから折れない、と。

 

unt:自由にやってくださいって言っちゃうと、なんでもありでよくわからなっちゃうんです。ある程度の敷居、ルールづくりは大事ですよね。即興で表現したりすることもすべてが自由ではないように。

 

アサノ:そのルールづくりが難しい。

 

unt:小名浜のイオンでいえば、そのルールを既存のまちづくりではないところから見つけてこないと難しいんじゃないかな。今までのショッピングモールとは違って、これだけ市街地のそばにできるわけだし、「復興」という大義名分もある。

 

小松:ならば、イオンそのものをどうするのかっていう議論よりも、商店街のラインや、既存のリスポなどをどうするのか。自分たちの手の届くエリアをどうするかって議論をしたほうが現実的なのかな。↗

 

 

 

 

unt:ただ、ここからはイオン、ここから商店街、というように明確に分けることの弊害もあると思うんです。その境界線を馴染ませるようなコンテンツを入れていくほうがいい。管理的な境界線はあっても、作る時の境界線は作らないほうがいい。

 

小松:なるほど。海と川の間の中間領域みたいなね。実際に、イオンと小名浜のリスポの間に、中間領域的な新たな商店街を作るという構想もあるみたいだし。境界線を曖昧にしていくほうがいいのかもしれない。

 

アサノ:ぼくはちょっと違っていて、はっきりと区切ったほうがいいんじゃないかと思うんです。だって、イオンと商店街で同じものを売っていたら、絶対イオンで買うでしょ? リスポの「れたす」のハンバーガーとか、「高木屋」のチーズドッグの話とかも同じ。互いの魅力をハッキリさせたほうがいいのかな。

 

unt:うん。そういう意味では、別けられているし、別けることで一緒の土俵にもなる。だから区別していくことは大事だと思うし、本来そうあるべきだと思う。ところが現状は、なかなかそううまくはいかない。自由度のある中間領域を作るより、初めから全部ルールを決めてしまったほうが簡単で楽だからです。管理もし易い。だから、大きなお金を動かして、カチっとつくるようになってしまう。↙

 


地酒なども交えながら、かなりざっくばらんに「放談」は進んでいく。自由な意見交換の中に、重大なヒントが。  / photo by ichinosuket
地酒なども交えながら、かなりざっくばらんに「放談」は進んでいく。自由な意見交換の中に、重大なヒントが。 / photo by ichinosuket

 

―「おおきなもの」への依存によって失われるもの

 

小松:以前、被災者のコミュニティづくりの絡みで、とある団体から3,000万円くらい助成が出るって話があった。そのときに、3,000万円かけて大きなものを作るより、30万円でできる場を100カ所作ったほうが面白いよなって考えて辞退したんだけれど、助成出すほうはお金かけた大プロジェクトやりたいだろうし、大きな場所って複雑なニーズがあるんだよね。

 

unt:大きな場所を1つ作るだけなら業者がいればいいですからね。楽だしカネも動くし、雇用も産まれたりする。

 

小松:でも、そういう一部の業者しか作れない巨大なものを、まさに建築家が作ってきたわけでしょ? 大きなものを何年もかけて作って、お金をかけて…という「仕組み」に、建築家が加担もしてきた。

 

unt:それがある一面では「原発的な構造」と言えるかもしれない。時間と金をかけて大事業にすれば、仕事もできて経済効果も生まれますしね。小さな自治体はそれで救われると思ってしまう。

 

小松:すごく極端なことを言えば、数千億円かけた発電所を作るより、数億円規模の小さな発電所を街のあちこちに作ったほうがいいんじゃないかと思うよね。リスクの分散にもなるし。

 

ナカジマ:住民が関与できるくらいのスケールに落とし込まれた発電所があってもいいですよね。地方の山間部にある小さな水力発電所だと、近隣の300世帯くらいに電気を配る、というような発電所があります。そういう小規模の、地元の集落だけに電気を作るような発電所がもっと増えてもいいですよね。↗

 

小名浜港に到着した浮体式の洋上風力発電設備。今後、福島県沖に順次配備されることになっている。(出典:清水建設ウェブサイト)
小名浜港に到着した浮体式の洋上風力発電設備。今後、福島県沖に順次配備されることになっている。(出典:清水建設ウェブサイト)

 

 

 

小松:大きな発電所を地方の僻地に押し付けてきた。だから、おれたちは「エネルギーをどうやって作るのか」ってことに無頓着でいられたのかもしれない。たとえば、地域の小学校のそばに地域の発電所があったり、各家庭に設置できるミニ発電所みたいなものがあれば、エネルギーへの意識も高まるし、事故があっても最小限の被害で食い止められる。

 

アサノ:そこでぼくたちがエネルギーに関わるには、「量」を知らなくちゃいけないですよね。坂口恭平さんも言っているけれど、自分が一日に水をどれだけ必要としているのか、電気をどれだけ使うのか。そういうのを把握しているからこそ、ホームレスの家は小さな小屋なのに、必要なエネルギーを作ることができると。

 

小松:小名浜の本町通り沿いには、震災前まで「配湯」というシステムがあった。工場の余熱を使ってお湯を作って、それを各家庭に配っていく。いわば、地域のエネルギーを地域で生み出すという非常に新しいことをやってた。震災でなくなってしまったけど、もう少し評価されてよかったのかなと思うよね。

 

unt:やっぱり、それをやるのは手間もかかるし、大きな発電所を作ってしまうほうが簡単なんですよ。巨大なものを田舎に建築して、カネを動かして雇用を生んでいくという、そういうノウハウを長年にわたって日本が培ってきたわけだし。

 

小松:そうだね。だから、時代に合わなくなっても止められない。間違いだったから辞めましょう、ではなく、間違っていないはずだから続けましょうってことになってしまう。巨大な予算もかけているから、「海水を注入するのはもったいない」と。

 

unt:原発のような施設って「日本人のテクノロジーってすごいな」って話にもなりますよね。だけど、スケールがあまりに大きくなってしまって、何かことが起きたときに、日常の中で処理できなくなってしまう。だから、事故が起きたときにヘリコプターで水を撒くしかない。あれが等身大なんですよ。

 

小松:原発で事故が起きたら “ヘリコプターで水をかけるしかない” ニッポン。それが身の丈なんだろうね。

 

unt:結局おれたちの生活もそうだったじゃないですか。何をするにも、まずは水汲みにいかなくちゃいけない。それが生きることなんだって思わされた。

 

小松:給水所に行っても、水の重さがわからなくて、袋が破れたり、途中で運びきれなくなっている人もたくさんいたでしょ。水って生きていくうえで欠かせないものなのにリアリティがない。どうやっておれたちは生きてるのか、ってことをまったく考えてこなかったんだよね。

 

unt:それと同じように、建築も、まちづくりも都市設計も、スケールアップしすぎると扱いきれなくなるのかもしれない。


 

―失敗を許さない社会によって失われる冗長性

 

小松:原っぱと遊園地の話に戻ると、これまでの日本って、「遊園地的なもの」を作り続けてきた社会だったのかもしれない。だから、遊園地が壊れた今もなお、原っぱの作り方がわからなくて遊園地に戻ろうとしているようにも見える。

 

アサノ:原っぱ的なものを作るには、今以上に「使い手」の側から考えなくちゃいけないと思っています。今の人たちって遊園地に慣れてるんですよ。群馬県に「富弘美術館」という、館内が円形に繋がっていて順路のない美術館があるんですが、利用者から「わかりづらいから順路を作ってくれ」と言われ、今は通路に矢印がついてしまっているんです。

 

unt:使う側が、作る側の期待する「原っぱ」的な使い方ができないんだよね。さきほどの話にも出た、100%の自然のほうが逆に遊びづらいという話と同じ。

 

アサノ:だから、使い手の立場から「ルール」を設定する、使い手の側に立って余白を作っていくということが大事なんです。

 

unt:そこで大事なのは、失敗が許されることじゃないかな。プロの人が関わるわけではないから、市民と一緒になってやっていけば失敗が起きます。でも、実際には莫大な費用をかけて建設されるから、失敗が許されなくなって、プロや専門家だけで完璧に作ってしまう。結果、冗長性がなくなって少しずつ窮屈になってしまうと。↗

 

アサノの手がけた作品「環境の棚」は、家具的な「建築以下」の考えが取り入れられている。
アサノの手がけた作品「環境の棚」は、家具的な「建築以下」の考えが取り入れられている。

 

アサノ:プロダクトをやっている人に聞くと、プロダクトは検討するより何より「ためしに1個作ろうよ」というのができるわけです。すぐにプロトタイプを作れちゃう。だったら、そういう「家具」みたいな考え方で建築をやればいいのかなと。小さいものだったらぼく1人で作れるし、失敗も許されます。しかも、家具くらいのスケールなら、小学生も中学生も参加できる。

 

unt:失敗の許される建築で思い出すのは、日本の昔の家。通勤する途中にあるんだけど、勝手に母屋と離れを空中回廊で繋げてる家があるんですよ。今見れば違法建築なんだけど、勝手に増築したり小屋を作ったり、使ってるほうが勝手に自由に家を作ってしまう。そういう建築が実はいちばん面白いんです。↙

 


 

―まちの「豊かさ」とは

 

ナカジマ:結局、「経済」が最優先されるから、大きなものをつくらざるを得なくなる。でも、経済経済とは言うけども、なにをもって「豊かさ」と考えるかの問題ですよね。

 

アサノ:自分の息子に自慢できるまちってどんな町だろうって考えたとき、経済発展がすべてではないですし。福島県内の復興の取り組みの中には、お金の換わりになるもので自分たちのネットワークを作っていこうという人たちもいます。とても興味深いことだと思います。

 

unt:それはいい取り組みだね。もともとは、カネじゃなくてモノがあってこその経済でしょ。そのモノを資本にしていくというのは、本来の価値が見直されるという意味でもいい取り組みだと思う。

 

アサノ:たとえば、モノだけじゃなく、自分たちの作った電力が貨幣の替わりになるとか。今の電力会社に頼る必要もなくなるし。自分たちでつくった電力を通貨的に使うことができるかもしれない。

 

トークイベントはUDOK.を会場にゆるり行われた。
トークイベントはUDOK.を会場にゆるり行われた。

 

 

 

unt:まちづくりが面白いのは、そういうカネもエネルギーも含んだうえで考えていけることだよね。エネルギーをどうするのか、お金をどう扱うのか、地域のものづくりやひとづくり。それらをみなまちづくりのスケールで当てはめていけばいい。分けて考えるんじゃなく、まちづくりとして考える。

 

小松:まちづくりを、市民1人ひとりが関与できるスケールに落とし込んでいくと、「経済最優先」からは少し距離を置くものになると思うけれど、カネが間に入っていたところにヒトやモノが入っていくわけでしょ? そのほうが、理想的なあり方に近づいていくような気がするなあ。

 

アサノ:その意味でも、その地域に暮らす人や一般の人たちの考えを取り入れていくこと、さっきも話しましたが「ポップであること」が建築に携わる人間にとって重要になってくると思います。小名浜本町通り芸術祭も、とてもいいきっかけになると思いますよ。

 

小松:いやあ、ほんとうに面白い話でした。「建築以下」にスケールを落としていくことで市民が関わる余白も増え、そこで産まれる冗長性が、失敗やトラブルを柔らかく受け止め、持続性を生んでいく。もちろん、巨大資本がつくるアクアマリン的なものもあるのだけれど、そこと差別化していくことで、まちの魅力はさらに強まる。小名浜の進むべき道も見えてきた気がするなあ。3人の活躍は、これからの福島では欠かせないものになっていくと思います。期待しています。今日はありがとうございました。

 

三人:ありがとうございました。

 

(終)