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ESSAY

いきのびたひとりとして

text by Atsushi YAHAGI  /  posted on 2013.3.8


 

三月十一日。

 

昼食を済ませ、実家から歩いてすぐの所にある母校玉川中学校の卒業式をみて、

実家のガレージで洗車をしていた時でした。

携帯のバイブがジーパンのおしりの中で着信を知らせ、液晶画面を見ると「緊急地震速報」の文字。

その数秒後まさに人生を変えてしまう出来事が起きました。

地鳴りとともに周りの家から瓦がガラガラと落ちる音が聞こえ、

近くの林からは木がこすれ合いミシミシと音をたて、頭上の電線は鞭のように波打ち・・・。

その後の惨状は未だに一人一人の心の中に澱のように溜まっています。

 

自分は多発性骨髄腫という難治性がんの患者です。

今のところ有効な治療法は見つかっておらず、治療の基本的なスタンスは延命です。

最近は治癒を視野に入れた治療も試みられていますが、

標準治療とは言い難い治癒率の低さと強烈な副作用が待っています。

治療後の生存年数は平均約三年。

同じ時期にこの病気になった仲間も何人か亡くなりました。

十年すると数%の生存。そんな中、自分は三年は生きながらえています。

 

生き残りました。

病気の治療を終えてから三年。震災から二年。

自分は生き残っています。

震災から二年が経ちましたが感覚的には引き算の感覚で、二年間生き残ったという感覚なのです

 

人は一瞬で奪い去られるとき痛みを感じます。

がんを告知され、結婚して一年と経たない妻との約束や今までの夢を方向転換するときの苦しみ、

震災と福島第一によってもたらされた永遠に続くと思っていた実家いわきの風景の変化を見たときの哀しさ。

そんな痛みを、そして哀しさを知っているからこそ伝えられることがあると思うのです。

 

歌を歌う理由は自分がここにいることの証しであって、

今ここに生きていることの証明です。

生き残った人間の一人として「生きのびた」だけじゃなくて何かを残さないといけないと思うのです。

何かをするにしても、自分にできることは歌うことしかない。

 

絵を書いたり、文章を書いたり、

写真を撮ったりもし他に自分の気持ちを発信する方法があったなら

自分はそちらを選択したかもしれません。

 

自分が行っている歌う活動は全てチャリティーです。

募金の金額は本当に微々たるもので毎回小学生のお年玉程度の金額しかできていません。

募金先ももっといろいろな活動をしている団体へしたいと思っていますが、かないません。

その中でもし募金に意味を見いだすとすれば

チャリティーという活動は自分の意思表示の形でもあるということです。

 「自分はこういう方向性をもって生きている」という意思表示なのです。


自分が歌う活動を始めた当初、ある方が「矢萩さんはガン患者の新しいモデルですね。

ひと昔前はガン患者といえば守られる対象でした。

歌う活動はガン患者同士が支え合うという新しいモデルです」と仰いました。

 

医学が発達し、ガン患者もQOLを保ちつつ社会復帰をすることができるようになりました。

がん患者がお互いを支え合うと言う活動は自分以外にも例があります。

俳優の渡辺謙さん、世界三大テノールの一人ホセ・カレーラスさんは白血病を克服して社会に貢献しています。

子宮頸がんの広報活動をしている原千晶さんもかつてがんと闘いました。

がん患者でも社会貢献活動に参加することができる時代になったのです。

 

震災を経験した我々の心はとても傷つき疲弊しましたが、

お互いを助け合う互助の気持ちはまだまだ残っています。

震災後、つとに感じることはいわきの互助力。

それまで自分が気づかなかっただけなのかもしれないですが、

遠く東京に住んでいても、ブログやFacebook、ツイッターでいわきのリアルタイムな状況がわかるし、

少なくとも地元と繋がっている感じが味わえる。

 

がん患者ががん患者を支える。

震災経験者がお互いを互助する。

そんなことができてしまう時代なのです。  

 

意識を失うほど辛かった無菌病棟での一ヶ月の生活。

本当に山と形容するしかない豊間中学校の瓦礫の山、

すっかり形をかえた薄磯の海岸を号泣しながら見て

生き残った自分に与えられた時間や使命って何なのだろうと考えずにはいられなかった。

そして自分なりに考えた答えは「歌うことは生きること」。

 

多発性骨髄腫と震災で生きのびたひとりとして、

歌うことで同じ病気で悩む仲間の希望となり、

故郷いわきへの愛を歌で伝えていきたいのです。


文章/矢萩 淳

1971年いわき市小名浜弁別生まれ。

渚保育所、小名浜第三小学校、玉川中学校、磐城高等学校を経て、国立音楽大学声楽科卒業。

上海日本人学校在任中に「多発性骨髄腫」になり、国立がんセンター中央病院にて1年半にわたる治療をうける。

実家のあるいわき市小名浜で病気療養中に被災。

多発性骨髄腫と震災を経験し、「今自分にできることは歌うこと」という思いで、

東京といわきを中心にチャリティーリサイタルを主催している。


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コメント: 1
  • #1

    樽見 綾です。 (水曜日, 05 8月 2015 22:52)

    お久しぶりです。覚えてくれていますか?私は看護士をしています。田舎にはなかなかかえれません。先輩達と頑張って練習していたころが、懐かしいデス。青春でしたよね。先輩は、体調いかかまですか。心配です。