HOME  >  ESSAY  >  余白

ESSAY

余白

第35回吉野せい賞「奨励賞」受賞作品  text by Chihiro SHIGA  /  posted on 2012.12.1

 

 健診センターの待合室のテレビから、震災当時を振り返るショート番組が流れ出した。津波から必死に逃げたときの様子を語るおばあさんが佇む場所には何もなく、ただ冷たそうな風だけが吹き抜けていく。少し前に収録されたものなのか、こちらは半袖を着ているのに、画面の中のおばあさんは寒さに身を縮め、ほっかむりをしたスカーフの端からこぼれた髪は風に激しくなびいている。


 そのテレビの前にいくつも並んだソファーには、健診着に着替え検査の順番を待つ人々が所狭しと座っているが、音量を小さくしているせいかテレビを見ている人は一人もいない。企業などの団体の健康診断を受け入れていることもあり、職場の仲間同士楽しそうに小声でおしゃべりをして過ごす人が多く、そのほかは本を読んでいたり、目を閉じて体力の温存に努めている人が多い。そんな中、冷たい風に頬をさらしながら語るおばあさんの声は、まるでBGMのように実に虚しく流れていく。

 

 

 私がこのセンターに勤め出したのは最近のことで、それを機に一気にいろいろな人と知り合った。こういう医療機関にはさまざまな職種の人がいる。彼らに自己紹介をするたびに、ご実家はどこ?  どちらのご出身? と聞かれることがしばらく続いた。その都度笑顔で「福島です」と答えた。相手がどんな反応をみせるのか、こちらも構えていたせいか、その分笑顔になっていた。過剰に心配されたらどう答えようか、気の毒そうな顔をされたら私はどんな表情で返そうか、まさか怪訝な顔はされないだろうなと、瞬時にいろいろとシミュレーションをした。

 

 しかし意外にも反応は薄かった。せいぜい、こっちに来て長いの? と尋ねられた程度だった。自分がどんな反応を求めていたのかはわからないが、「福島」と聞いて、まったく震災に触れられないのが不思議であった。だが、冷静になって周囲を見れば、もう私の住む湘南では震災を気にかける人はほとんどいない。テレビの中では、がれき受け入れ拒否や風評被害などの言葉をよく耳にするが、私の暮らす日常にそれらを直接見ることはない。特に福島を敬遠する声を聞くこともなければ、心配する声を聞くこともない。すでに、震災は忘却の彼方に追いやられているようでさえある。

 

 

 今回の大震災以降、私はかつて都内の出版社に勤めていたときの体験を思い出すことが増えた。それは某病院で経営の話を訊くために、阪神淡路大震災から六年後の神戸を訪れたときのことである。いざ神戸に向かおうと会社を出ようとした私は、上司に呼び止められ「震災のときのことも訊いてこい」と言われた。私は急にそんな指示をされても、ついでみたいに訊いて来られないと断りたかったが、まだ入社したての若い私にはそれができなかった。

 

 震災の爪痕がまったく見えなくなった神戸の街に大きく構える某病院。予定通りに経営の話を訊いたあと、私は上司の指示に従い震災のときの様子を尋ねた。すると、それまで柔和な表情を見せていた相手が一気に顔を曇らせた。その瞬間から私は早くも訊かなければよかったと後悔した。相手は目に涙を浮かべ関係者が一人犠牲になったことだけを告げ、「これ以上は話せない」と付け加えた。

 

 私は慌てふためいた。どんな言葉を相手に返したかはよく覚えていないが、座っていたソファーが汗でしっとりとしていたことだけは鮮明に記憶している。この体験は、当時の私の脳裏に「反省」というよりは「失敗」という意味で深く刻み込まれた。それは、相手が涙ながらに私に抗議したように思えたからだ。涙をこぼすとまでは想像できなかったにせよ、初めて会った私に震災の様子などそう簡単に語ってくれないことくらいわかっていたのにと、心の中で上司を責めていた。

 

 

 だが、今回故郷が震災に遭い、やっとあのときの相手の涙に向き合えるようになってきた。いくら風景から震災の爪痕が消えても、震災に遭った人々の心までは元通りにならないし、どのような体験をしたか、何を失ったかによって、心の傷が癒えるために必要な時間も大きく異なってくることに気付いた。そして私は、いくら上司が訊いて来いと言っても、「自分の判断で尋ねないこともできたのではないか」と、当時の自分の行動の浅はかさをしばらく後悔していた。

 

 しかし、最近「福島」と聞いても何にも反応を見せない人々を目の当たりにして、やはり当時神戸に行って震災に触れずに帰ってきたならば、それも相手にとって不快だったのかもしれないと考えを改め始めた。根元から折れた高速道路の橋桁、そこにひっかかるように停車したバス、特撮映画のセットのように横倒しになったビル ——。どれも初めてみる信じがたい光景だった。ドラム缶に火を焚いて暖をとる人々の口からもれる真っ白い息、炊き出しに並ぶ人々の疲れた横顔——。 テレビ画面の向こうの風景とは言え、高校生だった私は身震いがした。

 

 それから六年後に訪れた神戸は一変していた。震災前の神戸の街を見たことがない私にとって、どこがどう変わったのか、もしくは変わらずそのままなのかはわからなかった。だから、神戸の街を歩きながらも、「もう震災の爪痕はまったくないんだな」と安心する程度にとどまり、そこで生きる人々の一人一人にどんな悲しみや苦しみがあったかなど、思い至らせることはなかった。

 

 逆にここまで復興できた神戸で震災を語るのは失礼なのではないか、とさえどこかで思っていた。でもそうではなかったと今更ながら思う。みんな笑って元気に過ごしているからと言って、それに甘えてしまってはいけない。そこに至るまでの努力に敬意を払う必要があるのではないか。かつての自分を反省すると同時に、今福島に触れない人々の気持ちも、あのとき神戸を歩いた自分と重ね合わせるとわかるような気がする。震災について触れてはいけないという気遣いに近いブレーキが多くの人にあるのかもしれない。

 

 

 だが、今回の福島においては、そういうブレーキも単なる気遣いだと素直に受け取れにくいケースがある。放射能汚染の実態が明らかになるにつれて、福島への誹謗、中傷問題が大きく報道された。その一方で「子どもたちを守るため」「被災地の人々のため」などを理由に、がれきの受け入れ反対を訴える人々がたびたびテレビ画面に登場した。こういう報道が繰り返されるうちに、人々は何を基準にものごとを判断したらよいのか、そのものさしを見失っていったように思う。

 

 「放射能」に敏感になると同時に「福島」という地名にも敏感になり、ほかの被災地とわけて考えられるようになっていった。「放射能」は福島の大地や海や空を汚しただけではなく、福島に差し延べかけられていた多くの手までも奪っていった。空間線量の高低や補償の差や、福島に住み続けるか否かという判断などで福島の人々はいくつにも区切られてしまったが、こちらでは福島を応援するかしないかという判断で人々の心が分離されていった。

 

 いや「分離」というほど二極化したものではなかった。むしろ、そのどちらとも言わない傍観者が大半を占めていただろう。放射能を知ろうとせずに密かに恐れ、福島を見ようとせずに密かに避けていく。放射能とは自分たちの知識では到底太刀打ちできない相手であり、また復興に非協力的な態度を示すことはいかなる理由であれ人間性を疑われるため、多くの人は福島から距離を置き、無言になってしまった。

 

 私も故郷が福島でなかったなら、人の傷に触れてはいけないという気遣いではなく、己を守るために自分の意思を隠し傍観者を装っていたのかもしれない。では、自分がこれまでどれだけ意思を周囲に示してきたかというと、それほどのことはしていない。特別意識して隠してきたつもりはないが、自分の思いをありのままに誰かに直接語るということはなかった。故郷を思わない日はなかったのに周囲に話すことはなかった。

 

 それを他人のせいにするつもりはないが、「帰省する」と言えば「もう大丈夫なの?」と言われたり、中には「子どもも連れて行くの?」とやや驚いた表情で訊かれたりすることもあり、身近な人々とそんな会話が積み重ねられるうちに、私もどこかで「福島」を語ることを控えていったように思う。しかし、控えれば控えるほど、胸の中で故郷への思いはより膨らみ、周囲とのギャップを一方的に感じていた。

 

 

 そんなとき、長女の授業参観で自分史を発表するというものがあった。十歳になった自分を振り返るもので、子どもたちは幼いときの写真やエピソードを模造紙などにまとめ、それを一人一人教室の前に出て発表した。たくさんの保護者が見守る中で、娘は自分の名前の由来を語り出した。

 

「お母さんはおなかの中に私がいるとき、福島の山々の木を眺めながら、

こういう木のように大きく成長してほしいと思い名付けました」。

 

 娘の口から堂々と「福島」という言葉が出てきたのが誇らしくて、また里帰り出産をしたときに実家の窓辺から眺めた水石山が目に浮かび目頭が熱くなった。呼んだとき風景が浮かぶような名にしたいと思いつけた娘の名前。そんなことを、帰省したときに遠くに見える山々を指差して教えたのを娘は忘れず覚えていてくれた。私の中に福島があるように、娘の中にも福島はある——。娘がためらいもなく発表した姿を見て、私は背中を押された思いがした。

 

 福島を語ってみよう。そう思っても、実際に今福島に住んでいない私が福島を語るのには無理がある。震災後に福島に三回帰省しているが、滞在した日数を合計しても十日程度だ。いくら気持ちがあっても、語るための材料があまりにも少なすぎる。そしてまた、私がこちらで周囲と自分との間にギャップを感じたように、実は福島に住んでいる人々と私の間にも当然ながら埋められないギャップはある。あの日福島にいなかった私が語る福島は、残念ながら本場の福島ではないのだ。

 

 まして、震災から遠ざかり福島に無反応な人々に、よく状況をわかりもしない私が自分の感情のおもむくままに「福島はまだまだ大変なんだ」と訴えることは決して福島にとってプラスだとは思えないし、場合によっては風評を招く危険性さえもある。かといって、一部の情報を頼りに安易に「福島は大丈夫」と言うことは、原発事故や津波被害で苦悩している人々の存在までも記憶から消す結果につながり、風化を加速させる可能性もある。

 

 

 目を閉じると、いまもなお、震災三か月後に涙を拭いながら歩いた久之浜の変わり果てた風景が目に浮かぶ。幼いころから幾度となく父母に連れられて遊びに来た久之浜が、津波と火災で焦げ茶色の風景となってしまっていた。広範囲にわたって土台だけしか残らなかった岩手や宮城の津波被害の風景はテレビでよく見ていたが、久之浜の風景はまるで違った。海のすぐそばの住宅は土台しか残っていなかったものの、海から少し離れると流されなかった住宅が将棋倒しになり折り重なっていた。火災が起きたこともあり、炭と化した植木と門扉だけが残されていたところもあった。傾いて首をうなだれたように見える焦げた郵便ポスト、屋根だけ消えた蔵、片面の外壁しか残っていない住宅、燃えて赤茶けた数々の乗用車。私には空襲の焼け野原の写真と重なって見えた。

 

 

 その半年後、つまり震災九か月目に私は再び久之浜を訪れた。県外から集まったボランティアや地元の人々の手によって片付いたという話を聞き、この目で確かめたく向かった。久ノ浜駅から海のほうに目をやると、風景にぽっかり穴が開いたようにそこにはもう何もなかった。焦げ茶色の風景は焦げ臭さともに消え、そこにはむき出しになった黄土色の乾いた地面が一帯に広がっていた。

 

 浜に打ち上げられて横転していた車も消え、持ち主との再会を求めて防波堤の至る所に置かれていた品々も消えていた。整理された道を歩くと、近くの小学校の校庭で再開した商店街への案内板が「ふんばるぞ」という力強いメッセージを添えて立ててあった。

 

 中には家を建て始めているところも点在しており、そのわきを通るとほのかに新しい材木の香りがした。よく見れば黄土色に広がる平面の中にも、お店や風呂場のものかと思われるタイルや鉄筋がむき出しになったブロック塀はあるものの、以前の風景とは一変していた。震災直後、ほかの地域に比べ復旧作業が進まなかったために、いまだに復興というにはほど遠いものの、久之浜が前進しているように見えて、もう涙はこぼれなかった。

 

 

 しかし、線路の上に立ち北のほうを見やると、この先にある富岡や浪江の風景が目に浮かんだ。お盆の帰省のたびに原ノ町駅からいわき駅の間を家族で電車に乗った。車窓から眺める田園の緑と太平洋の青のコントラストはまぶしく、娘はその風景を好んで私のカメラにおさめていた。

 

 まだ私が子どもだった頃、生前父はよく私と母を富岡のおいしいうなぎ屋に連れて行ってくれた。うなぎの濃厚なたれの香りがしみ込んだ少し古びたカウンターは老舗の風合があり好きだった。それらを思い出しながら北へとのびる線路を一歩、二歩と歩いてみると、この先に誰も通れなくなってしまった場所があるという事実が信じられなくなった。おそらくこれまでは「警戒区域になった」という情報でしか私の中に入っていなかったのだろう。

 

 私は北に続く線路に立ち初めてそのやるせなさを実感した。一瞬にして故郷を追われる、住んでいた家を奪われる——。そういう人々の無念さを私はどこまで理解できているのだろうか。同じ福島、同じ浜通りでも、大きく感覚が違うことを痛感するとともに、やはり私は「まだまだ大変なんだ」と言いたくなる。

 

 だが、電車に乗っていわき駅まで出ると、ショッピングを楽しむ家族連れや若者であふれていた。道路に多少凹凸があるものの、私が以前から知っているいわき駅であり、ごく普通の風景である。震災直後は「ゴーストタウン」とまで言われたいわき駅前は、私が震災後初めて帰省した昨年(二〇一一年)六月にはすでに活気があった。初夏の陽気の中で若者たちが軽やかな服装で歩いていたのが印象的だった。

 

 帰省を重ねるごとに、報道などで聞く福島を懸念する声と、実際の福島との間に大きな隔たりを見つけた。確かに放射能汚染はある。原発事故は終わったわけではない。故郷を追われた人もたくさんいる。だが、真っ黒に塗りつぶされたかのような表現を耳にするたび、そこに継続して日常を送っている人々も多くいるんだと私は叫びたくなる。と同時に、久之浜から北上する線路の風景も目に浮かび、「もう大丈夫」というべきか、「まだまだ大変なんだ」と言うべきか、私は福島にあまり関心を示さない人々の中で口をつぐんでしまうのであった。

 

 なにを言うべきか——

 

 私は「べき」にとらわれていたことに最近気付いた。何をどのように語れば福島のためになるのか、そんなことに自分を縛り口をつぐんでいたのかもしれない。そして、私自身が福島にいる人々とのギャップを恐れていたように思う。どこまでも福島に寄り添いたいという思いと、当時一番大変なときに我が子を残して帰省することができず、遠く離れた地から心配しかできなかった後ろめたさが私を動けなくしていた。

 

 私がこちらにいて周囲とのギャップを指摘するように、自分が福島の人々に指摘されるのを恐れていたのだ。「何かちょっと違う」という感覚のずれを目の当たりにすればするほど、我が身にもそう指摘される部分があるのではなかろうかと不安を感じていたのだ。

 

 

 震災以降、「温度差」という言葉が多く聞かれるようになったが、私もよく使用していた。こちらで理解してもらえないとき、この「温度差」という言葉は実に便利である。しかし、最近この「温度差」という言葉が冷たさを帯びて聞こえるような気がしてきた。確かに感覚のずれや認識のずれなど、これまで幾度も感じた。しかし、そのたびに「温度差だ」と言ってしまっては、相手と自分との間に壁を作ることになる。

 

 「温度差」という名の壁。もしかすると、私自身が壁を作っていたのかもしれない。

 

 福島に無関心に見える人々というのは、この壁を恐れてあえて話題に出さないのではないだろうか。話題にならないと不満に思っていた私のほうが、相手に話題にさせない雰囲気を作っていた。放射能への恐怖やわからなさに加え、「温度差」という壁が人々の間に隔たりを生んでいく。話題に出せない雰囲気は、さらに相手を萎縮させ、それが継続し蔓延すれば、次第に遠いところの話となり「対岸の火事」になってしまう。そして「対岸の火事」の焼け跡は根拠もなく避けられ、そしていずれ忘れられていくのだ。

 

 私の住んでいるあたりでは、岩手や宮城に比べて福島は本当に話題になりにくい。やはりそれには原発事故が大きく影響している。いろいろな意見や動きが報道される今日、個人が福島を語るのにはかなりのエネルギーが必要になってしまった。それだけ単純な問題ではないということではあるが、やはり私は周囲の反応を恐れず自分の感じた福島を語りたいと思う。そしてまた、私自身も相手に温度差を感じたとき、そこで「温度差」という壁は作らないようにしたい。認識のずれや感覚のずれがあるのは致し方ないことであり、そこを認め合うことから先に進めるのではないだろうか。逆にその「ずれ」が新しいアイデアを生むこともあるかもしれない。

 

 

 今回のことは明らかに福島の問題ではない。全国各地どこで起きてもおかしくない被害であり、またエコなエネルギーとして信じ利用してきた日本人みんなの問題である。そうとらえたとき、自ずと今まで感じてきた「温度差」は、「認め合える違い」に変わるのではないだろうか。

 

 支援される者と支援する者、理解される者と理解する者、そのような関係性ではなく、共通の問題としてとらえれば壁は消える。しかし、当事者と非当事者という関係性は消すことができない。いや、むしろその関係性だけははっきりとしておくべきである。私も福島に故郷はあるが当事者ではない。

 

 いくら福島への思いがあっても、あの日福島にいなかった私はどれだけ福島を思っても非当事者でしかないのだ。非当事者として福島を語るとき、すべてを知ったふうに語ってはならない。あくまで「当事者ではない私が知っている福島だ」ということを強調して話すべきだろう。私から福島の話を聞いた人たちが、当事者の話に耳を傾けたくなるように「余白」を残しておくことが最も大切であり、それが福島を離れている私にできることだと思った。

 

 

 今日もまた、健診センターの待合室のテレビから被災地の様子を伝えるショート番組が流れ始めた。相変わらず気に留める人もなく、テレビ画面には海に面した更地が映し出されていた。私も仕事をしながら横目でちらっとみた。その瞬間、テレビの中の風景が、かつて涙をこぼしながら歩いた久之浜であることに気付いた。

 

 「あっ、これ、私のふるさとなんです」

 

 気付いたら私はテレビ画面を指差していた。隣にいた職場の先輩に伝えたつもりが、興奮していたのか声が大きかったようで、テレビの前のソファーに座っていた人々が一斉に私のほうを見た。

 

 「えっ、そうなの?」

 

隣で先輩はやや驚いた顔をしている。テレビ画面には、先日電話で話をした幼稚園の園長先生が映っていた。私は、その幼稚園の園児は送迎バスで避難したこと、先生方がバスの中で歌ったり手遊びをして子どもたちに津波の光景を見せないように努めていたこと、そして園舍は倒壊したものの園児は全員無事だったこと、しかし入園予定だった子が一人犠牲になってしまったことなど、私の知っている久之浜を少し話した。

 

 「また今度久之浜を見てくるつもりです。できればずっと見守っていきたいって思っているんです」

 

 この職場に来て、これほどたくさん故郷について話したのは初めてだった。テレビ画面越しに久之浜の風景が私をそうさせたのだろう。先輩は私の話をうなずいたり、ときには眉をひそめたりしながら真剣に聞いたあと、「私たちより、ずっと身近なんだね」としみじみ呟いた。

 

 私が周囲の人々に故郷を語ることで、それまでの「ただの福島」もしくは「原発事故の福島」が「知人のふるさとの福島」に変わる。実際福島に行ったことのない人でも、私がふるさとを語れば、私というレンズを通して福島が見えるのではないだろうか。そのレンズは決して透き通ったものではなく、今の福島のすべてを映せるわけではない。それでも、私の語る福島には、友人がいて、恩師がいて、母がいる。そういう今を生きる福島が語られると思う。

 

 福島を語る。福島を離れている私にできることなどこの程度である。しかし、私は今、目の前にいる人々にゆっくりと語っていくことから始めたい。大切な余白を残しながら。

 

 

文章 志賀 千尋

1976年、いわき市平生まれ。 平五小、平三中、磐城女子高を経て、國學院大学に進学。

大学卒業後、都内の医療関係の出版社に勤務。 その後、結婚し長女を出産し、出版社を退社。

現在は2児の母となり、神奈川県大磯町でゆったりとした子育て中。

大磯町に移り住んだ理由は、風がいわきと似ているから。



◀◀ PREVIOUS  /  NEXT ▶▶