工場の煙と父の命

tetote essay vol.3 / text by N.Hiroko

 

小名浜のイメージってどんなイメージ?

 

三崎公園や花火大会? アクアマリン? それとも、外国の貨物船が停泊する大きな港? 小名浜を離れて暮らすようになってから、私の目に思い浮かぶ小名浜の景色は、観光地のそれではなく、町のどこからでも見える煙突、そこからもくもくと立ち上る煙、そして、サイレンの響く工業地帯の風景だ。

 

その工業地帯で働く父のもと、私は小名浜の町で生まれ、化学会社の社宅アパートで育ち、中学を卒業するまでそこで暮らした。同じ年ごろの子供たちはみんなそのアパートで育ち、みな同じ幼稚園、小学校に通った。放課後は、敷地の中の公園で遊び、日が暮れる頃になると、アパートの窓から誰かのお母さんが「ご飯だよー!」と叫ぶ声が聞こえた。みんなが一斉に家に向かって走り出す。すると今度は工場から終業のサイレンが鳴り響き、父親たちが帰ってきて一日が終わる。そんな子供時代だった。

 

 

どこにでもある平凡な日々。でも、働き盛りの父はよほど無理をしていたのだろう。1972年、36歳のときに突然劇症肝炎にかかり、共立病院に緊急入院すると同時に昏睡状態に陥った。当時、私が5歳、兄が7歳のときだ。

 

主治医が父を救うために選択したのは「血漿交換」。血液中の血漿を健康な人のものと交換し、肝臓の機能を再生させようというものだ。しかし、それには100人分以上の輸血が必要だった。そして、仮に輸血が成功しても、今の状態では助かる確率は極めて少ないと言われた。それでも母は、藁にもすがる思いで、最後の望みをかけてそれに挑んだ。

 

この時、信じられないことが起こった。親類縁者だけでなく、父の容態を知った会社の上司や組合の方たち、同じ社宅のおじさんまでもが、父と同じ血液型の人を探し、必死で声をかけてくれたのだ。そして、父への輸血のために製造ラインを止めてまで連日何人もの人たちが病院にかけつけてくれた。それだけではない。小名浜の本町通りで眼鏡店を営んでいた叔父も、いろいろな人に声をかけてくれ、その声を聞いた商店街の方々も、見ず知らずの父のために輸血をしにきてくれた。

 

父は、何度か危篤状態に陥ったものの、5日間を通して血漿交換を行い、結果、130人もの血液に託された想いのおかげで、なんとか一命を取り留めることができた。父は、その後1年の入院生活を経て、無事、職場復帰を果たした。

 

 

今でも、里帰りすると母とこのときの話になる。よくお父さんは助かったね。あの頃は工場も商店街も景気がよかったからね。仕事を休んでまで輸血をしに来てくれた。父は、人にも時代にも助けられたようなものだね。そう母は言う。

 

今考えると、その後の父は、取り戻した命を愛おしみながら精一杯毎日を生きていたんだと思う。趣味の剣道や書道を再開し、休日はいろいろなところへドライブに連れていってくれた。家族4人、ただひとりも欠けることなく毎日を過ごすことができるという、ごく普通の生活に幸せを感じながら、たくさんの思い出をつくることができた。それができたのも、当時の小名浜の人たちが父を救ってくれたおかげだと、今でも私は思っている。

 

 

1989年のある日の朝、父は突然倒れ、52歳でその命を終わらせた。人は、その死を早すぎると言う。でも、一度は消えかけた父の命を、小名浜の人たちは取り戻してくれた。そして、幼かった兄妹が成人するまで、その父の命を授けてくれた。それを考えれば、ここまで父が生きてくれたことに感謝する気持ちの方が大きい。父も叔父も亡くなってしまった今となっては、この話も我が家の思い出話になってしまったけど。

 

昔はあんなに賑やかだった小名浜の町なかも、時の流れとともに変わり、今はシャッターを下ろしたまま。工場だって、あまり景気のいい話は聞かない。果たして今の時代、父のようなことが起きたらどうなるのだろう。私は、今も昔も変わらず、人ひとりの命をみんなで救おうとするような人情と元気さが小名浜にあると信じたい。遠くに離れてもなお、今の自分があるのは小名浜のおかげだから。

 

今日も、港近くの工場の煙突から白い煙が立ち上り、海の匂いがするのだろう。

それが、私の故郷、小名浜の風景。

 

2010.4.24 up

profile N.Hiroko

1967年小名浜生まれ。小名浜第一中学校、内郷高校(現いわき総合高校)を経て、地元企業へ就職後、転職・上京し電力関係企業を経て、現在は美容関係企業へ勤務。埼玉県で外国人の夫と暮らしながら、趣味で始めたチェロの修行中。

 

 

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コメント: 1
  • #1

    サヒガシ (月曜日, 07 2月 2011 03:18)

    文章を読んでいて、もしかしたら、大きなグランドが近くにあった社宅かなぁと思い、思わず書き込みを。自分は早生まれの1968年なのでN.Hirokoさんと同学年。東邦亜鉛の煙突が目の前にそびえ立つ、中原に住み、小名浜第二小から小名浜第一中学へ。小学生の頃グランドでソフトボールをやっていたのを思い出します。あの頃は、向こう三軒両隣の様な空気がまだあった様な気がします。義理人情とでも言いますか。現在、実家は丘の上にある団地に引越しましたが、近所の方がどの様な方が住んでいるか全く分かりません。まあ、それでもHirokoさんがおっしゃるように「人情と元気さが小名浜にあると信じたい。」のですが。たまに実家に帰ると、懐しく、あの辺りを歩きます。