いつもと同じ

Re:write vol.5 / text by Riken Komatsu

 

冒頭からいきなり不躾かもしれないけれど、心のどこかに「何も変わっていない自分」を見つけることがある。確かに、あの日大きな地震があり、見たこともない津波が町を襲い、放射能が今も多くの人を困らせているというのに、僕は毎朝7時に起き、いつもと同じシリアルをお腹に流し込み、OvallのCDを聞きながら、遅刻ぎりぎりで会社へと向かう。いつもと違うのは、厳重にマスクをしているくらいのもので(いや、マスクだってもともと花粉症だから関係ないかもしれない)、2011421日の僕は「いつもと同じ」なのだ。

 

ところが、海の方向へ5分もペダルを扱ぐだけで、以前とは何もかもが変わってしまった小名浜の町が厳然と目の前に飛び込んでくる。そこにある風景は「いつもと同じ」ではない。テレビで放映されるどんな映像よりも残酷で、どんな悲劇よりも悲しく僕の目には映る。粉々になった瓦礫、泥だらけのまま転がる県外ナンバーの車、1階部分がぽっかりと口を開けた倉庫。これが、いつもと同じであってはならない。でも、立ち止まり、鮮魚店のモルタルの壁に目をやると、2メートルは超えるであろう波の痕跡が、鋭利な刃物で肉体を切り裂いたように生々しく残されている。傍らに目をやれば、厳重にマスクをし、ガレキを片付ける人たちの姿。この風景が、「いつもと同じ」小名浜の風景になりつつある。

 

 

 

あの日、僕の日常の中に、何の前触れもなく、いつもじゃないものが足を踏み入れてきた。そいつは僕のいつもを切り裂き、あっという間に食い尽くした。僕のいつもはいつもじゃなくなり、いつもじゃないものがいつもになった。あの日見た夕日、おびえた母の顔、マイペースの父、めちゃめちゃになった原発、毎日水を汲みに行った用水路の水、騒ぎ立てるレポーター、希望的憶測、小名浜港の瓦礫、新潟の真っ白な雪、空の青、高速道路の歪み、防塵マスク、空腹、友人からの絵文字のないメール、恐怖、思い出、雨傘。どれがいつもで、どれがいつもじゃないのか。

 

小名浜のパチンコには、いつもと同じようにたくさんの人たちが押しかけている。避難所であくせく炊き出しを手伝った僕は、その数時間後にはトロサーモンの刺身を食らってスーパードライをぷしゅっとやる。誰かがオフィスでうたた寝をしているころ、仕事を失った誰かは必死になってガレキを片付けるボランティアをしている。家族が流され途方に暮れる人の脇で、憐憫の顔を浮かべながら、いつものようにアングルを気にして無表情に写メを撮る人がいる。どれがいつもで、どれがいつもじゃないのか。

 

 

 

ある人にとってのいつもと、別のある人にとってのいつもが、ここまで違ってしまうこと。僕はそこに愕然とする。でも、そちら側の「いつも」に足を踏み入れずに済んだ自分に安堵したりもするのだ。被災者であって被災者でない僕は、何がいつもで、何がいつもじゃないのか、悲しんでいいのか、喜んでいいのか、正直ずっとよくわからないままだ。

 

でも、そういう峻烈な壁は、いつも平気な顔をして「いつも」の中に潜んでたんだ。それを僕たちは「理不尽」といったり「不条理」といったりしてきて「いつもじゃないもの」として考えてきたけれど、僕らの「いつも」は、そういうものの上にこそ成り立っている。僕らが生きてる世界は、もともと理不尽で不条理で、たまたまそれが自分の目の前に見えなかっただけの話なのだ。311は、「いつもは本当はいつもなんかじゃなかった」ということを、まざまざと僕に見せつけていったのかもしれない。

 

目の前の小名浜の海は、かつて僕の心を癒したときのように、美しく波を立たせ、静かに岸壁に打ち付けている。この平安は「いつも」の景色なのだろうか。「いつもじゃない」ものなのだろうか。まだ少し頭の中がぼやけている。でも、ひょっとすると、僕らは、ほんとうにたくさんの美しい景色や、人や、人の思いを、「いつものこと」だと考え、通り過ぎてきてしまったのではないだろうか。

 

いつもと同じ。

 

その言葉が持つ意味を、この破壊された港に立って、ひとつひとつ、よく噛み締めていきたいと思っている。

 

 

2011.4.22 up

文章・小松理虔(tetote onahama編集部)

 

 

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