HOME  >  SUPERLOCAL  >  地域をつくる壁画の理念

SUPERLOCAL 012 / interview

九冨 美香

地域をつくる壁画の理念


text by Riken KOMATSU / 写真提供 Mika KUTOMI(撮影場所:沖之島)

profile / 九冨 美香  Mika KUTOMI

1980年香川県小豆島生まれ。近畿大学、東京藝術大学大学院で壁画を学び、アートマネジメントの世界へ。長野県の茅野市立美術館、群馬県のアーツ前橋などで学芸員として活動後、前橋市、高崎市などを拠点に作家、キュレーター、アートプロジェクトのマネージャーなどとして多彩な活躍を続けた。現在は、東京浅草で、群馬と東京の橋渡しのアクションを思案中。

 

2年半に渡り、群馬県前橋市・高崎市を拠点に活動してきた九冨美香。作家、キュレーター、アートプロジェクトマネージャー、物産商店主など、地産クリエイティブにおけるさまざまな活躍してきた1人だ。その活動は幅広く、つかみどころがない。しかし、元をたどれば、ある1つの理念に行き着く。「壁画の理念」。それは、どのようにSUPERLOCALと接続されるのだろうか。現在は東京に移住し、群馬とのつなぎ役を果たしている九冨に話をうかがった。

 

九冨との初対面は、意外にも小名浜。前橋市に誕生したコミュニティプロジェクト「前橋○○部(まえばしまるまるぶ)」の1つ、「まえばし×ふくしま部」のいわき視察で、大勢の仲間とともに九冨がやってきたのだ。幅広い活動をしていたことは、事前のリサーチでなんとなくは知っていたものの、九冨と話を深めていくうちに、九冨の活動にSUPERLOCALの大きなヒントがあるのではないかと直感的に感じた。今回の記事は、初対面の後にスカイプで話をうかがい、記事としてまとめたものである。

 

―「○○部」から始まる地産クリエイティブの萌芽

 

まえばし×ふくしま部なども含めて、「前橋○○部」の活動はとても盛り上がっていますよ。アーティストだけではなく、潜在的に「なにかしたい!」という人たちの活動が徐々に繋がり始め、新しい動きを作り始めています。「前橋○○部」の他にも、「FRASCO」というシェアオフィスを運営する「マエバシクリエイターズアクト(MCA)」というクリエイターの集団など、興味深い動きも出てきていますし、これまで点として存在していたものが、少しずつ線、面になってきている印象を受けます。

 

前橋と高崎、2つの拠点を行き来し、様々に活動してきた九富だが、前橋に移住したたのはほんの数年前、2011年の4月のこと。前橋市に今年10月にオープンした「アーツ前橋」の立ち上げため、学芸員としてやってきた。前橋に来る前も、長野県の茅野市美術館に学芸員として勤めており、市民と美術館を繋げるための土壌づくりに奔走してきた。

 

アーツ前橋での私の仕事は、一言で言えば、土を耕して種をまくこと。地域の誰がキーパーソンで、誰と誰が繋がると相乗効果が生まれるか。そんなことをリサーチしながら人の間に入っていろいろなイベントに参加してきました。私自身前橋出身の人間ではなかったので、ゼロの状態から少しずつ会う人を伝っていって、信頼できる人を探していくわけです。土を耕すのに数年、種をまいて芽が出るまで、また数年。ようやく最近になって芽が出てきた感じがしています。

 

前橋には、在住・出身も含めるとかなりの数のアーティスト・クリエイターがいます。バザールを開いている人やクラブイベントを主催している人たちもいます。一方で、自主的な活動をする人たちは「すでに自分の城を築いてしまっているので、他の人たちの活動に積極的に関わろうとしない」という話も耳にしていました。でも、そこを繋げないと美術館は作れませんし、そこを繋げる人間になろう、そういう役割として採用されたのだと考えて、これまで動いてきました。

初対面のUDOK.でインタビューに応じてくれた九冨。
初対面のUDOK.でインタビューに応じてくれた九冨。
前橋○○部のフェイスブックページ。九冨(写真・右)の姿も。
前橋○○部のフェイスブックページ。九冨(写真・右)の姿も。

 

美術館の学芸員は、美術展の企画や所蔵品の収集管理、ワークショップなどの教育普及活動を行う職員である。どちらかというと室内でカタめの仕事に従事しているような印象を持っていたが、九冨は、むしろ外に出て、人と人の間を走り続けてきたタイプだ。人という点と点を結びつける九冨の「媒介」としての存在は、前橋や高崎のクリエイティブシーンを語る上で欠かすことができない。↙

 


 

―プロジェクトのマネージャーとしてのスタート

 

大学から大学院にかけて壁画を中心とした美術分野を学んできた九冨。大学院時代は壁画研究室に入り、イタリア古典技法であるモザイク、フレスコ、ステンドグラスなどを深く掘り下げて研究してきた。しかし、制作一辺倒だったかというとそうではなく、アートプロジェクトを研究する学生たちとの交流を通して、人とアート、社会の関わりについての関心も高めてきたという。「作家」の範疇を超える九冨の懐の深さは、その頃に培われたようだ。

 

大学院を卒業したあと、実は2年ほど紆余曲折がありまして、東京都内でDTPオペレーターや、派遣社員として大手企業の人事や人材育成の部署で働いていた時期があるんです。でも、このときに学んだことが、全然違う分野で働く人との関わりであったり、そんな人達と一緒にシーンを作ることであったり、その後の自分にいい影響を与えてくれました。

 

そんな仕事の傍ら、当時住んでいた茨城県取手市で開催されている「取手アートプロジェクト」の展覧会を見る機会があったんです。実際の現場に訪れてみると、若手アーティストが好き放題やっている周りで、スタッフがてんやわんやしている姿。おたがい一緒にやろうとしているのに繋がっていない。「あれ?何かがおかしい!」と。アーティストと運営スタッフの間に流れる「隙間」の正体が何なのかを知りたくて、07年の取手アートプロジェクトにボランティアスタッフとして関わらせてもらうことになったんです。

 

作家としての立場ではなくマネジメント側に立ってみて初めて、今それまでとは全く違う目線を得ることができました。悩みもありましたけど、得るものも多かったですね。

 

そのアートプロジェクトのボランティアをしているうちに、偶然知り合った方から、茅野市の学芸員の仕事に誘われたんです。その時は食べていくためにアートとは関係ない仕事をしながらも、ずっと「美術と社会と人をつなぐ仕事がしたい」と思っていたので、「学芸員って、まさにそういう仕事だな」って、すっと腑に落ちて。それが今にも引き継がれているんですよね。

 

2013年の夏の甲子園では、前橋育英の優勝を祝して「前橋祝杯部」も誕生。
2013年の夏の甲子園では、前橋育英の優勝を祝して「前橋祝杯部」も誕生。
「マエバシクリエイターズアクト」が運営するシェアオフィス「FRASCO」
「マエバシクリエイターズアクト」が運営するシェアオフィス「FRASCO」
まえばし×ふくしま部は、2つの地域を繋げて大きく展開中。
まえばし×ふくしま部は、2つの地域を繋げて大きく展開中。


―小豆島で生まれた九富、そのルーツ

 

九冨が作家でありながら「美術と社会と人をつなぐ仕事」に興味をもったのは、取手アートプロジェクトに参加したから、だけではない。アートプロジェクトにボランティアとして参加しようと思わせる何かが、九冨自身の中にあるからだ。それは、九冨の生まれ故郷、小豆島から生まれたものでもある。

 

私の考え方というのは、生まれ育った環境からきていると思います。実家は香川県の小豆島から100m程度の海峡を隔てた沖之島(おきのしま)という、現在人口60人ほどしかいないところです。小豆島の小江(おえ)港から渡し船に乗って90秒。島民全員知っているような、どこの誰がどこで何をしているのかを島民みんなが知っているような島ですね。

 

九冨の故郷、沖之島ののどかな風景。
九冨の故郷、沖之島ののどかな風景。

お店や学校など、生活に必要なもののすべては小豆島側にあり、沖之島には自販機すらないという。九冨いわく、島にあるのは「郵便ポストが1個と、船と家と、犬と人と自然だけ」。通学の際に使う渡し船も、子ども1人の力では到底動かすことはできない。何をするにも、誰かの力を借りなければ成立できないのだ。

 

「助け合いながらでないと生きてはいけないことを、子どもの頃から無意識に理解していた」と、九冨は島の暮らしを振り返った。

 

すごく不便な島で生まれ育ったからか、目の前に「橋」があったらどんなに自由になれるだろうと思っていました。それで、建築家なら橋を架けられるかもしれないと子供心に思って、建築家になりたいと思っていたんです。

 

でも、高校受験の時に数学がダメで高専に落ちてしまって、地元の高校の普通科に進学して大学進学を考えていた時に、数学を避けて建築に携われるようなところはないのかと探していて、近畿大学文芸学部にある美術系の建築デザインコースを見つけたんですね。

 

結局は、建築デザインコースではなく絵画コースに行ってしまいましたけど、美術の中でも「壁画」という、わりと建築に近い方面に携わることになったのは、たぶん、「建築」というものの考え方が、私にフィットしていたからだと思うんです。実際、建築そのものがものすごく好きなんです。

 


九冨の藝大時代の修了制作「纏」。壁画の理念を大いに吸収した大学院時代の話は、特に興味深い。
九冨の藝大時代の修了制作「纏」。壁画の理念を大いに吸収した大学院時代の話は、特に興味深い。

 

―九冨を支える壁画の理念

 

不便な島に橋をかけたいと、建築を志した九冨。絵画を学んでからも建築への思いは消えることなく、大学院で「壁画」と出会うことによって、その志はさらに膨らんでいくことになる。壁画というのは、街の中心にある教会の装飾だ。教会は、当然その街に暮らす人の心の拠り所であり、コミュニティとなる。宗教とも深い関係のある場所だから、地域の歴史や自然、そして人の祈りが交差する場所でもある。

 

教会の中心には、そのシンボルとして壁画があります。壁画の周りには、たくさんの人が集まります。絵が、人のコミュニティに深く関わっているんです。それだけではありません。壁画をつくるときには、職人さんたちをはじめ、いろいろな人たちと関わりながら制作が進みます。

 

モノを作って終わりではなく、コミュニティを作りながら壁画を作らなければならない。それが、「壁画の理念」と言えるものです。 つまり、壁画を描く人間は、アーティストとしての役割だけでなく、マネージャー的な役割も求められるわけです。どの職人さんに頼むとコストを安くできるか、どの職人さんの技術が優れているのかなど、人材の見極めも必要になります。

 

また、壁画を描くためには、まちの歴史や宗教を学ばなければなりません。そうやって地域の人たちと深く関わりを持つことが、壁画作家には求められていました。その壁画の理念が、私の様々な考えの根本にあります。

 

(参考)イタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂の壁画。
(参考)イタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂の壁画。

 

壁画作家とは、壁画を通してコミュニティをつくる人間なのではないだろうか。街と関わり、歴史と関わり、人と関わり、その中心で作品を作りながらコミュニティをかたち作る。それは、九冨の活動と合致する。

 

アーティストの役割って、新しい価値観を作ることだと思っています。一方のマネジメントも、「場」や「仕組み」というところで新しい価値観を作ることが求められます。だから、共通する部分も多いですよね。アーティストの面と、マネジメントの面を分けて考える必要はないと思いますよ。今の自分の立ち位置を考えると、もう自分が何者なのかよくわからなくなりますよね(笑)。ただ、そこで新しい肩書きはつけず、あえて立ち位置を決めずにやっていきたいですね。

 


  

―“九冨商店”に読み取る、九冨のさらなる原点

 

九冨が手がける興味深いプロジェクトがある。それが、「九冨商店」だ。九冨商店とは、海なし県の群馬と、九冨の実家のある小豆島をつなぐ物産プロジェクト。故郷から物産を仕入れ、それを九冨流に「リパッケージ」して、群馬のイベントなどで販売しているのだ。言うなれば、壁画の下でゴザを広げる露天商人といったところだろうか。

 

あるイベントで小豆島産の味付け海苔を5束くらいでひとまとめにして200円で売ってたんです。そしたら全部売れて(笑)。こないだも、アーティストとして出品した展示の会期中に、母から送ってもらった小豆島の「島の光」というブランド素麺を小分けにして販売したり。あとは、実家で採れたレモンなどの柑橘類を販売したりしました。昔の島の生活は、男衆は漁、女衆は果樹園や畑という半農半漁のスタイルだったらしく、今でも実家で柑橘を育てているんです。とりあえず置いておいたら、みんな売れてしまいました。↗

 

九冨による小豆島の物産プロジェクト「九冨商店」。
九冨による小豆島の物産プロジェクト「九冨商店」。

 

 

 

もともと、九冨自身に物産プロジェクトのアイデアがあったわけではなかった。知人のデザイナーに、九冨が時折お土産として持って帰ってくる魚の佃煮を食べてみたいと言われ、「島と海なし県をつなぐような商いをしてみたらどうか」と提案されたのだという。

 

気づけば、そのデザイナーが名刺を作り、いつの間にか九冨商店ができあがっていた。人と人の橋渡しをしてきた九冨が、今度は群馬と小豆島に橋を渡す。もはや九冨自身が「橋」なのかもしれない。

 

母方の実家が、かつて廻船問屋をやっていたらしいんですね。小豆島から五島列島あたりまでモノを運んで、小豆島と九州をつなぐ商いをしていたらしいんです。それを考えると、九冨商店もいわば「海運業」だなと思いますし、その先祖の海運業が、小豆島での暮らし、建築、壁画、アートプロジェクトのボランティア、そして学芸員と、自分が経験してきた紆余曲折と繋がっているように感じます。

 

小豆島では、便利で快適な生活は難しい。しかし、人と人との関わりの中で不便さを分かち合い、繋がりの中で問題をクリアしていくという文化が根付いている。九冨のような人間を生み出す豊かな土壌があったのだ。

 

それは、地方でのみ機能するというものでもない。前橋に生まれつつあったゆるやかな繋がりやコミュニティづくりのノウハウは、東京のような都市部にも求められている。暮らしの中で生まれるクリエイティブを繋ぎ合わせ、人と人との繋がりの中で、新たな価値を呈示する。壁画は、どの町でも描くことができる。

 

無意識の中で、島に通ずる何かを求めてきたところがあるのかもしれません。繋がりやコミュニティの中で、何かを生み出していくということに。今は東京に暮らしていますが、前橋の人たちとの関わりも続いていますし、これからは、群馬と東京の橋渡しをしながら、コミュニティづくりに関わっていければと思っています。

 

小豆島に生まれた生粋のローカリストを支える「壁画の理念」。そこには「地産クリエイティブによるコミュニティづくり」のエッセンスが凝縮されている。九冨は、東京でどんな「壁画」を描くのだろう。彼女の動きに、引き続き注目していきたい。 (終)