潮騒の中で

Re:write vol.19 / text by chihiro

 

はやる気持ちをおさえつつ歩みを進める私の前に、以前と変わらない穏やかな小名浜の海が広がった。やっと帰ってこれた——。私は光る海面を眺めながら、ついに故郷いわきの地を踏めたことを実感した。

 

3月11日以来、私は遠く離れた神奈川県大磯からずっと故郷に思いを馳せていた。実家の母、大切な恩師や友人のことを思うと、本当はいても立ってもいられず、すぐにでも駆けつけたい心境だった。しかし、目の前の我が子たちを置いていわきに帰ることはできなかった。何の技術も知識もない私がいわきに帰ったところで誰の助けにもならないが、私が家をあけることで子どもたちに不安を与えるだろう。「今は帰る時ではない」と、私は何度も自分に言い聞かせた。 

 

大切な人たちが大きな余震や長期にわたる断水に耐え、目に見えない放射能におびえる中、自分だけ平穏な生活を送ることに罪悪感さえも感じ始めていたころ、夫はそんな私の気持ちを察してか「いわきに行ってくれば」と声をかけてくれた。すると、夫の言葉に子どもたちも賛成して、「いわきのばあばに渡して」と母への手紙を私に託し送り出してくれた。夫と子どもたちに感謝しながら、私はゆっくりと小名浜の海辺を歩き、あの日のことを思い出した。

 

 

「東海じゃない、三陸だ!」。私は直感で叫んだ。 

 

娘と幼稚園からの帰り道、私は大地震に遭った。電柱が左右に大きく揺れ、周囲の住宅がガタガタとうなり続ける中で、大磯の人々は東海地震を心配した。しかし、私は2日前に三陸沖で震度5の地震があったことをすぐさま思い出した。「福島が危ない、小名浜が危ない」。私は震える手で携帯を操作し母に電話をかけ続けた。

 

波に飲まれる母の姿が脳裏をかすめるたび、私はそれを打ち消すようにテレビの情報に食い入った。小名浜のショッピングセンター『リスポ』に勤める母と電話がつながったのは一度きりだった。「お店はめちゃくちゃだけど大丈夫よ」という母の元気そうな声に私はすっかり安堵した。まさかその数十分後に小名浜が津波に襲われるとは、そのとき私は夢にも思わなかった。

 

都内で足止めを余儀なくされた夫との連絡もままならない中、私は一人で不安を募らせていた。テレビからの情報は岩手、宮城に関するものばかりで、福島県沿岸部については皆無に等しかった。どんな小さな情報でもいい——。焦りと苛立ちの中でチャンネルをしきりにかえていた。そんなとき、「小名浜の様子」というテロップとともに、勢いよく逆流する川がほんの一瞬映った。

 

夕方撮影されたものかと思われるその映像は、深夜に何の解説もなく唐突に流れた。私はそれをみて、瞬時に親友の実家の近くを流れる川だとわかった。彼女は現在都内で仕事をしている。気付けばもう8年以上も会ってない友人に、深夜3時に私は迷うことなくメールを送った。かつて「気にすんめ」と言って悩む私を勇気づけてくれた彼女のまなざしを思い出すと、震える心もわずかに落ち着けた。

 

ほどなくして彼女からメールが届いた。彼女自身も都内でも身動きがとれず、出先からやっと会社に戻ってこれたところだった。そんな最中、彼女は私に「小名浜はきっと大丈夫」を何度も繰り返してくれた。 

 


当時の不安な気持ちと友人の励ましを思い出すと、今でも目が熱くなる。私があれほど心配した母は、津波が小名浜に到達する前に店を閉めて帰宅できており、『リスポ』も津波に遭わなかった。しかし、停電のため家の電話は使えず、携帯もつながらなかったらしい。母も帰宅後すぐに私に無事を知らせるメールを送っていたが、そのメールは私の元には届かなかった。

 

こうやって小名浜を歩いていると、打ち上げられた船などは片付き、ここが被災地であることを忘れてしまうくらい落ち着きを取り戻している。しかし、鼻の奥にまとわりつく生臭さはやはり以前の小名浜の空気ではないことをいやでも感じさせる。また、あのとき懸命に私を励まし続けてくれた友人の祖母宅は津波の被害に遭ってしまっており、そのときの様子を伝えるように、流失しなかった家々には津波の跡と思える筋がいまもなお残っている。それをたどると、いかに広範囲にわたって浸水したが伺える。

 

それでも通りは人が行き交い、今日も母のつとめる『リスポ』には客が次々と訪れている。母の話によると、震災後、市内のスーパーがどこもシャッターを降ろしている中、『リスポ』内の食料品売り場『シミズストア』は震災2日後から店を開け、当時のいわきの人々の生活を守っていたという。 

 

一方、母のいる婦人服売り場は、震災12日後から再開した。あの混乱の中、外出着を買う人はおろか、服を見に立ち寄る人などいないのではないかと思いながら店を開けたという。ところが、開店直後から「あんたに会いたかったよ」と母の顔を見に来る人や、「きれいな服が並んでいるのをみると気分転換になる」と笑顔を見せる人などで店内はとてもにぎわったという。そんな様子をみて、母は「小名浜は本当に元気。小名浜から復興していくかんじ」とよく言った。  

 

あの日、多くの恐怖と悲しみをもたらした小名浜の海は、私の前で悔しいほど穏やかに波打っている。まだ補修できていない海沿いの道を犬を連れて散歩する人がいる。私にとって非常時の風景の中を、当然のように歩く人。ここの人々にとっての日常がこの風景であってはならないと思うと同時に、小名浜の人々のそのたくましさに私は頭が下がる思いがした。

 

さらに歩みを進めていくと、一人のランナーとすれ違った。まっすぐ前をみつめ走っていく姿をみて、私は市民ランナーである夫の姿を重ね合わせた。そして「サンシャインマラソンがまたあったら絶対走るよ」と言った夫の言葉を思い出した。震災後、もうマラソン大会も開かれないのではないかと思っていたが、そんな弱気ではいけないと気付かされた。

 

この町はこんなにも生きている——。

 

私は遠く大磯の地でこのことを周りに伝えていくべきだと思った。この沿道に多くの人が集まり、そしてこの道路を多くのランナーが、小名浜に吹く優しい潮風と降り注ぐ陽光の中を駆け抜ける様子が私の目にくっきりと浮かんだ瞬間だった。

 

2011.9.17 up

profile chihiro

1976年、いわき市平生まれ。平五小、平三中、磐城女子高を経て、國學院大学に進学。大学卒業後、都内の医療関係の出版社に勤務。その後、結婚し長女を出産し、出版社を退社。現在は2児の母となり、神奈川県大磯町でゆったりとした子育て中。大磯町に移り住んだ理由は、風がいわきと似ているから。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    松本弘美 (月曜日, 19 9月 2011 13:14)

    読ませて頂きました!
    遠くにいる人ほど心配ですよね!
    わたも小名浜にきて38年、リスポの近くでお好み焼き店おしているのですが、大阪の兄や海外に住んでいる息子、遠くに居る友人達、本当に皆んなに心配掛けました。
    息子は、海外での情報がとても厳しいものだったので、直ぐにも日本を脱出して欲しいと連絡が付くように成ってからは今までに無い心配のの仕方でした。
    小名浜に来て38年!母の故郷なんですが小名浜が大好きです!
    今脱出と言われても、この街には計り知れない大切なものがイッツパイ有って、とても捨てることなど出来ません!街は元に戻ったように平穏ですが、それぞれの痛みは未だ不安のなかに渦まいています!でも皆んなで頑張つて行きます。
    お母様を大切に、ご家族と何時までもお幸せにお祈りします。





  • #2

    toyo (金曜日, 23 9月 2011 12:50)

    chihiro
    ありがとう。伝えてくれてありがとう。「伝える」大切ね。
    いわきも小名浜も、みな、tetoteをとりあって、がんばっぺ!!
    そして、震災にあわれた方も日本全国、みなみな、tetoteをとりあって
    大きな輪ができるように・・・。