ESSAY

小名浜よ 僕は君の中にいます

つづる vol.1 / text by Ichinosuke TAKAGI

posted on 2011.10.8

 

今、僕は普段通り部屋で音楽を流し、パソコンに向かってビールを呑みながら、この文章を書いている。2011年9月13日のPM22:00。ようやく涼しい風がそよそよと吹き込んでくる。鈴虫の鳴き声。静まった夜。遠くで稼働する工場から、かすかにリバーブがかかったような金属音が聞こえてくる。

 

朝になれば太陽が昇る。僕の朝は早い。大抵5時6時に起床して出勤する。眠くて起きたくないけれど、起きたら「だりいな」と思いながら歯を磨いて顔を洗う。外に出ると、郵便受けに新聞が届いていて、出勤途中にタバコを買いにコンビニエンスストアに寄る。

 

震災以来、小名浜の交通量は格段に増えて、通勤時間と帰宅時間は渋滞になるが、この早朝の時間はまだほとんど道路を独り占めでスイスイだ。晴れている日は朝日がギラギラと輝き、まだ眠りから覚めていない町を照らしている。その光がフロントガラスの視界を独占する。神白を過ぎ、永崎海岸に出ると朝霧も加わり、さらに視界を遮る。しかし朝焼けと朝霧に包まれた永崎の海岸沿いはとてもキレイだ。キラキラと細かく輝く海を横目で見ているときに、カーステレオからジャストフィットなハウスミュージックが流れたときは、朝から最高な気分になる。この幸せが味わえるのは、朝が早い水産業の隠れた特権だ。

 

会社に着くと、みんなが出勤してきて普段通りに仕事をする。機械を丁寧かつ急いで洗い、蒲鉾を製造する。夢中になって作るから時間が経つのは早い。機械を洗い、明日の準備をして終業。出勤時間が早い代わりに、帰りは早い。大抵15時16時だ。帰宅の途中は、車窓から海岸線をみてキレイだなと思ったり、道路はもうフラットだから何も気にせず気楽に車を走らせる。空き缶が転がっていたりする。緑もキレイだ。風も気持ちいい。

 

これが3.11から半年経った僕の生活だ。3.11以前とほとんど変わらない。というか、以前と同じ生活が送れている。しかし、しかしだな。いったい僕たちはどこに向かっているのだろうか。

 

半年前、あんなにめちゃくちゃになった。たくさんの人が亡くなり、たくさんの町が壊れた。仕事もなければ食い物もない、ガソリンもなければクソを流す水すらない。砂埃まみれになって帰ってきても風呂にも入れず、洗濯もできなけりゃ食器も洗えず、台所の流し台は地獄のありさま。

 

外に出れば道はガタガタで、津波で流れてきた海砂が乾いて舞い散り、救急車や消防車がサイレンを鳴らし、何言ってんだかさっぱり聞き取れない街頭車が走り去る。町には盗人が現れ、津波で壊れた店や、避難してもぬけになった家から金品を盗み出す。

 

原子力発電所は爆発して、花粉とともになんちゃらシーベルトが舞い散る。ドロドロになって帰宅し、手を洗おうとして、何も出ない蛇口を、思わずひねっちゃう。人があまり並んでいないから、という理由で午前3時に浄水場に行って水を汲む。まったくバカげた状況だ。

 

 

2011年の3月11日。14時46分。踏ん張りきれない揺れと地鳴りと工場内の振動音。慌てて工場を飛び出すと道路が割れ、水と泥が溢れ出す。石塀は次々と倒れ、体を支えられなくなったパートのおばちゃんが僕の腕にしがみつく。手が、全身が、震えていた。裏山ごとゆさゆさ揺れ、花粉がもくもくと立ちのぼる。倒壊した永崎の街から、埃がもくもくと立ちのぼる。裏山に上って、そんな異様な風景を見ているうちに津波がやってきた。津波に浮く自動車はクラクションを鳴らしながらワイパーもハザードも作動していて、それがまるで壊れゆく自動車が助けを求めているかのようだった。

 

裏山を降り、実際に間近で地震と津波でやられた永崎の町を目の当たりにしたとき、俺はAKIRAかなんかの世界に来ちまったのかと思った。泥と瓦礫に覆われた道路に立って。

 

「この世界はどこだ」

 

道は瓦礫。弁当を作ってもらえなかった日、昼飯を買っていたコンビニエンスストアも瓦礫。そのまわりに立っていた家々も瓦礫。俺が今、立っているのも、海水に浸った瓦礫の上。

 

「ここはどこだ」

 

もう全部が変わっちまった。何がどうなったのか。まったくわからない。ら・ら・ミュウにいる父はどうしてるんだろう。考えたくないが、正直、死んじゃったんじゃないかと思った。東京に出張に行っていた母は、パニックになって泣いているんだろうと思った。東京に住んでいる弟はいつも飄々としているけど、今どうしているんだろう。どんな気持ちなんだろう。そんなことを考えながら家族に繋がらない電話をかけ続けながら、俺は瓦礫を踏んづけながら、波がたまった道をザブザブしながら、家に向かった。ようやく神白あたりでザブザブ歩いているときに弟と連絡がとれ、母と弟の無事が確認できた。

 

あとは父親だ。とにかく早く家に戻りたかった。津波が何回も来ていて、危険なことはわかっていたが、早く家に戻れば父が家にいそうな気がしたから、遠回りをやめて、ルートを家に近い小名浜港方面に切り替えて走った。朝日製氷所からゴールドレーンに抜ける道で、案の定、目の前のT字路から濁流が押し寄せ、津波が襲ってきた。コンテナや瓦礫や大型トラックを巻き込みながら。

 

今歩いている道が海に変わるまで3秒。目の前に津波。いったいどんな世界に来ちまったんだ。俺は脱兎のごとく他人様の家の高台に飛び乗った。ぜーぜー息を吐きながら、他人様の家には濁流が流したトラックが激突している音が聞こえる。

 

「もうめちゃくちゃだ」____。

 

 

震災から4ヶ月が経った7月の連休。小名浜辰巳町にある鯨岡肉店のビルに、しげちゃんとたんくんが『オクリエ』を描いた。たんくんは早起きで、あるとき朝日に照らされたオクリエの写真をツイッターに投稿していた。あまりにもきれいだったので、俺は出勤ルートを変更してオクリエを見つつ会社に向かった。

 

車窓から朝日に照らされてキラキラしているオクリエを見て、小名浜に芽生えている新たな息吹に嬉しい気分になった。でもすぐ道を進むと胸がざわついたポイントを通過することになる。そう。俺がドロドロになりながら他人様の敷地に飛び乗った道。思い出したくもねえ。4ヶ月以上も経ったのに蘇る恐怖。

 

そんな感じで、突如気持ちがざわつく時がある。でもまだなにも終わっちゃいないし始まっていない。兎に角僕は生きたい。少なくてもあと100年は生きたい。まだまだやれることは山ほどあるからさ。

 

3.11以降のめちゃくちゃな状況で、今振り返ってみると、かなり必死にやってきて、この小名浜という町ととことん向き合ってました。そしたらあれから半年経った今、僕の周りには素敵な友達がたくさんいます。あんな事があったから僕の目が覚めたのかも知れません。気付いたら小名浜が大好きになってました。そして僕は今、この小名浜という町に素敵な友達と共に居れることがとても幸せなんです。 

 

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profile Ichinosuke TAKAGI

1979年いわき市小名浜生まれ。高校卒業後、仙台でデザインを学び、上京。上京後はVJ(ビジュアルジョッキー)として、都内のクラブやライブハウス等で活動し、2006年にはDJ Qbertの東京公演のVJ crewを務めた。2010年に小名浜に帰郷し、地元の蒲鉾会社に務めながら創作活動をしている。