ESSAY

これからのこと これからの小名浜のこと

つづる vol.2 / text by Riken KOMATSU

posted on 2011.10.19

 

今日は、いつもよりちょっとだけ長く書いてみようと思う。仕事の都合で、1ヶ月小名浜を離れることになった。それで、少しゆったり、少し真面目に、これまでのことと、これからのことを書いてみようと思ったのだった。夜、ビールを飲みながら、好きな音楽をかけて、リズミカルにキーボードを叩く。まあつまり、できるだけ穏やかな気持ちで、これからのことに向き合いたいって、そういうことなのだ。酔っぱらう前に、一気に書ききってしまうつもりなので、ちょっとだけ、お付き合い頂きたい。

 

震災から、7ヶ月と少しが経過した。震災の記憶は、おぼろげになったようで、かといって凝縮されたようで、眠りにつく前にあの日のことを思い出して眠れなくなることは少なくなったけれど、でもそれは「忘れる」ということではないし、忘れることなんて到底できやしないのだった。ある時は不安、ある時は恐怖、ある昼は後悔、ある夜は寂しさ、、、と手を替え品を替え、震災はいまだに僕たちに不意打ちをかけてくる。復興がんばっぺ! なんて言ってみても、その実、ゲリラ部隊におびえながら真っ暗闇のジャングルをさまよう負傷した敗残兵みたいに、見えない影におびえながらひたひた逃げてきた7ヶ月だったのかもしれない。

 

思えば、「わからないこと」だらけだった。一番やっかいなのが、放射能。そのやっかいさは、町中の人たちが除染に取り組んでいるというNHK福島のラジオニュースを聞きながら、東電からたっぷり広告料をもらっていた大手の新聞社の東電批判の記事に目をやり、セシウムが入っているかもしれないネギを山盛りにしたとろろそばを食う、といった具合だ。ウソや本当や見込みや安全性やウソのPRや打算や茶番や事実や叫びや気合やウソや希望が、不可解なアート作品みたいに幾重にも幾重にもレイヤーがかって僕たちの身体に入りこんでくる。「それはこれこれこういうことなのだ!」と得意げに語る人も含めて。

 

この7ヶ月、僕は、公的な場で原発のことや放射能のことについて発言するのを極力避けてきたつもりだ。SNSでマスメディアの報道やジャーナリストの記事を共有したり、まあ多少は東電のことを罵倒したりはあったけれど、一般の市民への「べき論」はできるだけ控えてきた。なぜなら、子どもの命は最優先しようという前提はあっても、やっぱり「わからない」のだし、福島に住む人が極限状態で決定したことは、たとえそれが福島から出るものであれ残るものであれ尊重すべきだと思ったからだ。特別賞賛されるべき行動もないし、埒外の人から批判される筋合いもない。みんながみんな、取り乱したり泣きわめいたりそれでも決断したり、要は、必死こいてたんだ。

 

友人が、このウェブサイトあてに寄せてくれたエッセーのなかで、こんなことを言っていた。

 

この国に暗い影を落としている問題はとても根深く、行く末を考えれば考えるほどわからないことだらけだ。自分の立場をはっきり表明して意見を主張する人たちを見ると、正直少し羨ましいと思うし、自分がとても億病で中途半端な人間だと感じて焦ることもある。だけど私はまだ、自分の内側でもつれる思惑や弱腰な態度や違和感の正体をうまく説明できない。非常事態にあって、いちばん不確かなのは自分自身だという気がする。それで、私は口をつぐんだ。もしかしたらこうやって沈黙している人は案外たくさんいるのかもしれない。そして、物言わぬ人間が、無感覚で “思考停止” なのかというと、やっぱりそうでもないのではないかと。

 

 

僕も同じだ。とにかく「わかったような口をきく人間」の意見には、心から同意することができなかった。それは、おそらく僕の心にずっと迷いがあったからだろう。でも、原発推進だろうと脱原発だろうと、「それはこれこれこういうことなのです」と種明かしをするように、さも評論家面して得意げに語る意見には胡散臭さを感じたし、「どちらかといえば、皆の目の前にあるこの “迷い” のほうがずっとずっと真実だよ」と考えてきた。

 

同じ県内、同じ市内、同じ町内ですら、置かれた状況は決定的に違っていて、「これこれこうなのです」なんてことは言えない。ましてや「フクシマ」だの「オセンクイキ」だのと一括りに語ることなんてできやしない、ということをこの7ヶ月ずっとずっと痛感させられてきたのだ。状況は道路一本で違う。命を落とした人と、命を拾った人の間に引かれた線。ホットスポットと安全地帯の間に引かれた線。そういう究極的にまで峻烈な線が「町」の、「字(あざ)」の、あちこちに引かれている。

 

その線は、僕たちをどこまでも「バラバラ」にしてしまった。どうしようもないくらいにバラバラで、泣きたくなるくらいに不揃いだった。それが現実だった。だから、バラバラの、そのままを知ってもらわなくちゃいけないと思って、このウェブサイトに震災についてのエッセーを寄せてもらった。小名浜で生まれ育った人、家族や友人が小名浜に残っている人、ボランティアで訪れた人、小名浜に住んだことのある人、、、、たちが寄せてくれたエッセーには、バラバラの状況や決断や悩みや苦闘があった。文体も言葉も句読点の打ち方も構成もまるで違っていた。皆が置かれた状況は、本当に悲しくなるほどバラバラだった。

 

 

ところがどうだろう。バラバラの人から寄せられたエッセーをひとしきり読み終えると、バラバラの中に、なにかこう「そうだよなあ」とうなずかずにはいられないポイントがいくつもあることに気づく。皆が違う立場で違う意見を言っているのに、思わず手を繋ぎたくなるような温度がある。バラバラなのに、つながっている。つながっているのに、バラバラなのだ。バラバラに目を向けるか、つながりに目を向けるか。それで、感じるものも違ってしまう、ということかもしれない。

 

ふと、僕が上海で感じたことを思い出した。日本人と中国人とではここが違う。日本人の気持ちを中国人がわかるわけがない。そんなふうに違いにばかり目を向けてばかりいた僕は、せまっくるしい日本人意識にとらわれて中国人を忌み嫌ってばかりいた。でも、そんな憎たらしい中国人も、うまいメシを食えばうまいと言うし、一緒にエロ動画を見ては安い酒を酌み交わして友情を語り合ったものだ。なんだ、同じじゃないか。そう思えるようになったとき、僕は「違い」を「尊重」するということを覚えたのかもしれない。

 

違うから、お互いの共通点を見つけて感動できる。共感があるから、今度はお互いの違いを尊重できる。考えてみると、一度バラバラになってみなければ、それも気づけないのだ。震災前の僕たちは、同じような洋服を着た若者たちのグループみたいに「みなおなじであること」に安堵していたけれど、今は、どっちにしてもバラバラなのだ。バラバラだからこそ、違いを尊重し共感でつながっていける関係、バラバラだけれど緩く連帯できるような関係ができあがるんじゃないか(上海で体験したことと同じように)、そんな風に、今、考えている。

 


仲間たちと、津波に被災したビルに絵を描く「アシタエ」という企画をやった。たまたま犬の散歩に訪れた人。港のそばの家を津波でやれてしまった人。アシタエを描くために東京からやってきてくれたナカジマ君。絵を見に平からやってきてくれた女の子。そして、思い出の詰まった自宅を失うことになったビルのオーナー。みんなバラバラだ。でも、そこに流れてきた思い出や、小名浜のおいしかった店のことや、目の前に描かれる絵を語ることで、共感しあうことができる。バラバラだからこそ、感動を共有できるのだ。

 

10月30日に、小名浜の景観をスケッチしようという写生会を、仲間が企画することになった。絵を描くことで、「あそこのラーメン屋はどうだった」とか、「ここの模型屋で何々を買った」とか、小名浜の思い出を語るのだろう。そして何十年後かに、その絵を見て、「ここで絵を描いた」とか、「みんなで絵を見せあったなあ」とか、また、思い出を語るのだろう。「思い出」が共感を生み、バラバラをつなぎあわせる力があるのだということを、その友人は知っているのだ。

 

うまく言えないのだけれど、僕たちは、そろそろバラバラを卒業するときを迎えているのではないだろうか。もちろん、僕たちが置かれた状況は危機的なまでにバラバラだ。だけれど、バラバラを悲しむのではなく、バラバラだからこそ感じられる共感のほうに目を向ければいい。いわば、バラバラを共感の種にしてしまうのだ。tetoteは、共感の種を売る「種屋さん」になりたい。緑のツタを力強く伸ばし、どんどんと天に向かって伸びていくゴーヤのような植物の種を、ひとつひとつ大切に売っていこう。

 

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文章:小松 理虔(tetote onahama編集部)

 


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コメント: 1
  • #1

    しうたらう (土曜日, 03 12月 2011 15:49)

    ニューヨークより 笑顔をこめて ;)