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SUPERLOCAL 010 / interview

松田 文

検証:失敗から考えるアートポート小名浜


text by Riken KOMATSU / 写真提供 アートポート小名浜

profile / 松田 文  Aya MATSUDA

1974年いわき市生まれ。震災後、いわき市中央台の仮設住宅住民のためのコミュニティサロン「パオ広場」の立ち上げに携わり、1年ほどスタッフを務める。現在、モダンフォークバンド "Medium Trench" のボーカル&ピアニカを担当。

 

小名浜を舞台にしたアートフェスティバルがあったことを皆さんはご存知だろうか。2007年に初開催された「Art! Port! Onahama(以下アートポート小名浜)」。小名浜港エリアを中心に、数々の展示、ワークショップ、イベントが開かれ、いわきを代表するアートプロジェクトと期待ながら、08年を最後に幕を下ろしてしまう。プロジェクトにいったい何が起きていたのか。今回のSUPERLOCALは、その「アートポート小名浜」を先導した主要人物、松田文に話を伺い、アートプロジェクトにまつわる様々な問題を検証していきたい。

 

―フォークミュージックのライブが出発点

 

07年9月に初めて開催された「アートポート小名浜」は、アクアマリンパーク4号倉庫を拠点に、展示、舞踏、演劇、映画上映、トークショー、ワークショップなどさまざまなプロジェクトを企画したアートプロジェクト。07年、08年と二度開催され、いわきに縁のある作家が多数参加し、ローカルのアートシーンに大きな足跡を残した。

 

アクアマリンふくしまそばの4号倉庫がメイン会場となったが、タウンモールリスポや小名浜カトリック教会など小名浜のまちなかにも点在。アートとまちづくりが一体化したアートフェスティバルとして、大きな注目を浴びることとなった。

 

松田は、そのプロジェクトの中心人物の1人だ。ギャラリー創芸工房(いわき市鹿島)の鈴忠壽(りん・ちゅうじゅ)とともに、企画の立案から会場の確保、アーティストとの折衝、スポンサー集めなどに奔走し、プロジェクトを成功に導いた。

 

松田は、いわき市を代表する洋画家、故・松田松雄の息女である。さぞかしアートに対する造詣が深く、情熱を持ってプロジェクトの遂行にあたったのだと私は考えていたのだが、プロジェクトの成り立ちについて話を聞くと、その出発点はとても意外なものだった。

 

もともとは、鈴さんの知人の方が『フォークシンガーの友部正人さんのライブを企画しよう』と言ったことが始まりなんです。アートイベントをやろうというのは全然頭になくて、どうしたら友部さんを呼べるかって相談受けた時に、いつの間にか私が実行委員長みたいな立場になってしまって…。

 

いろいろ交渉してる間に話が膨らんでしまったので、費用を確保するために行政の助成金を申請しようということになったんですが、友部さんのライブだけでは助成金がおりないので、せっかくならアートイベント的なものにしようと。それがきっかけなんです。

 

2007年初開催でのArtPort楽団による演奏。
2007年初開催でのArtPort楽団による演奏。
インタビューに答える松田。UDOK.にて話をうかがった。
インタビューに答える松田。UDOK.にて話をうかがった。

 

プロジェクトの出発点が「フォークシンガーのライブ」だったことには驚かされたが、だとすれば、その出発点と、後に実現されたプロジェクトの規模感があまりにかけ離れている。もちろん、松田の展開力や企画力のなせる業だとは思う。しかし、当初計画されていたフォークライブが、なぜあれほど大きなアートプロジェクトになったのか。かけ離れた隔たりの中に、アートポート小名浜の面白さ(問題点も)が隠されているようだ。続編が期待されながら2回しか開催されなかったのも、そのあたりに理由があるのかもしれない。↙


 

―アートポートは、成功とは言えない

 

アートポートを振り返ると、正直成功とは言えないです。1年目は作品の質も高かったですし内容的にはよかったと思います。でも、08年は金額も大きくなってしまい、全体で300万円近くかかってしまったのですが、かかった割には散漫になってしまって、半端なまま終わってしまった感じがあります。純粋に芸術を楽しむというより、ビジネスやまちづくりNPO的な要素が入ってしまい、わたしが本来やりたかったスタイルはなかなか出せなかったですね。

 

松田が抱えていたのは、「助成のしがらみ」とも言うべき問題。アートポート小名浜は、いわき市の「ひと・まち元気創造事業」と、福島県の「地域づくり総合支援事業」の助成を受けた。2回目は「アサヒアートフェスティバル」の助成も入っている。しかし、コンテンツは充実したものの、助成の条件をクリアするための内容が増え、本来のコンセプトからずれてしまったというのだ。

 

市や県のイベントの場合、どうしても「まちづくり」と絡める必要が出てきます。「地域振興」が全体を貫くコンセプトになるので、人をまちなかに回遊させたりする工夫が必要で、会場もいくつか押さえなければならない。そうしていると、作り手が意図していない部分で、イベントが大きくなってしまうんです。

 

メイン会場の前には、インディアンテント「ティピー」も登場。
メイン会場の前には、インディアンテント「ティピー」も登場。

 

 

 

イベントが大きくなると、少人数ではなかなか企画に手が回らない。当然、助成団体のアドバイスなども受けながら企画が練られることになる。また、アートに不慣れな地元のまちづくり団体との折衝も必要だ。その過程で、他県のプロジェクトと似た企画が増えたり、企画することが目的化してしまったりと、本来の松田のアイデアやコンセプトが少しずつ薄れてしまったのだろう。


営利目的の活動はできないので、グッズの販売などで資金を増やすこともできませんでした。2011年に3度目の企画を立ち上げたのですが、資金の不足や震災などもあり、プロジェクト自体が立ち消えになってしまった感じですね。

 

私自身は、パンキッシュな表現や、アートの持つ孤独さ、突き放す感覚がとても好きなんです。でも、助成を頂いているので、どうしてもコミュニティアート的な「みんなで仲良く…」という空気を出さなければいけない。そこのバランスがうまく取れませんでした。

 

アートポートの場合、会期が一週間程度と短いですし、まちづくりと呼べるものに仕上げるのはかなり難しい。でも考えなければいけない、会場も押さえなければならない…みたいになって、中途半端になってしまいました。わたしの未熟さもあるんですけど。

 

もはや、松田と鈴の2人ではコントロールしきれないほど「肥大化」してしまっていたのだ。フォークシンガーのライブがアートイベントとなり、助成を得るために、さらに体を大きくしていく過程で、主催者の思いは、曖昧なものになってしまった。思わず「誰が望んだプロジェクトだったのだろうか」ということを考えずにはいられない。

 

ただ、松田が「まちづくり」の路線を否定しているわけではない。実現はできなかったが、失敗の経験を生かした3度目の企画では、作家の制作環境や日常、地域との連動性にも目を向けた長期的な企画も織り込まれていた。これは本文の最後で考察する。

 


メイン会場では、砂絵のパフォーマンスなども繰り広げられた。
メイン会場では、砂絵のパフォーマンスなども繰り広げられた。

 

―運営とキュレーションの両立の難しさ

 

体が大きくなればなるほど関わる人の数も増え、松田は、キュレーターとしての役割を果たせず、運営サイドに回らなければならないというジレンマを抱えてしまった。人の管理、配置、育成など、松田の仕事は多岐に渡った。企画者である松田自身がキュレーションにほとんど携われなかったことも、アートプロジェクトの面白みを散漫にしてしまった要因になった。

 

キュレーターというより、ほんと会社の運営みたいな感覚でした。きめ細かいところまで妥協せずに徹底的にリスクマネジメントして、最悪にならないように動いてないと危ないですから。痛感したのは、自分の未熟さ。精一杯やってるのにこの程度なのかって、ずっと苦しい思いがありました。身の丈にあってなかったのかもしれません。

 

スタッフの管理も大変でした。2回目の08年は、アーティストに対して謝礼をお支払いしたんです。すると、スタッフはボランティアなので不公平感が出てしまう。じゃあ、今度は遠方から来るスタッフに交通費や宿泊費を出そうということになったんですが、遠くから来ていれば動きの悪いスタッフにも出さなければいけない。ほんとうに人のマネジメントが難しかったです。


それに、わたしはこのときはフリーターだったんですけど、『アートポート小名浜の実行委員長』ですって言っても、社会では受け入れてもらえない。会社の社長みたいな肩書きじゃないと、ほとんど誰も相手にしてくれないとか、そういう難しさもありました。

 

小名浜カトリック教会でのライブ。多数の観客が訪れた。
小名浜カトリック教会でのライブ。多数の観客が訪れた。

 

スポンサーを見つけても、「フライヤーのロゴが他社よりも小さい!」といったことで怒られて辞退されたり、「松田は無断で勝手にやっている」と町の重鎮の方の反感を買ってしまったこともあって…。そういうことに疲れてしまったというのは正直あります。今では、助成とかに頼らないで、自分たちのできる範囲で、身の丈にあったイベントやったほうが絶対にいいものができると思っちゃいますね。

 

助成のジレンマ。運営の困難さ。そして、地域との関係構築の難しさ。ここまでアートポートを振り返ってきて、アートの話よりも、むしろ運営についての話が大半を占めたところに、ローカルアートプロジェクトの難しさが滲み出ているのではないだろうか。最後の一言に、松田の偽らざる本音を見た気がした。↙


会場となった4号倉庫がアート空間として生まれ変わる。休日には家族連れなどもやってきて賑わいを見せた。
会場となった4号倉庫がアート空間として生まれ変わる。休日には家族連れなどもやってきて賑わいを見せた。

 

―松田を突き動かした 小名浜の魅力

 

松田が振り返るような助成のジレンマや運営の難しさがありながら、なぜ2度も開催し、3度目の企画を提出しようとしていたのだろう。精神的にも肉体的にも追い込まれながら、松田をイベントの運営に駆り立てたものは何だったのか。話はそこに移る。

 

ここまでやった理由は、この4号倉庫が気に入っちゃったからです。まずインスタレーションとして美しい。解体、つまり死ぬのを待っているような状態で、ほとんど何にも使われていない。寂しそうだなって、壊される前に弔いをしてあげたいって勝手に思ってしまって。

 

まわりからは「なんでそんなボロ倉庫を?」って言われるけれど、小名浜の歴史や物語をきちんと引き継いでいるところにも魅力がありました。一緒にイベントを企画して頂いたアクアマリンふくしまの安部館長も同じで、あのボロの、なんでもない倉庫を残したかったとおっしゃって、ニューヨークのソーホーにあるようなギャラリーにできないかと、かけあってもくれました。

 

倉庫での展示は、「SU・KA・P・PA・TAの記憶」というタイトルをつけました。「すかっぱた」というのは、いわき弁で「浜辺」という意味です。倉庫のあるあたりは、ほんの数十年前まで砂浜でした。鳴き砂もあったり、その砂で硝子を作る「小名浜硝子」という会社もあったそうです。

 

 

 

だから、もう一度、その砂浜だったときの記憶を取り戻しながら新しい記憶も刻めればと、そんな思いでした。アートポート小名浜をやってなかったら、この倉庫も、何の弔いもないまま震災で破壊されてしまったと思います。ここで2度も開催できたことは、ほんとうによかったと思っています。

 

松田がこの倉庫に魅せられたのは、小名浜の歴史や文脈をしっかりと残した場所だったからだろう。都市部の白壁のアートギャラリーにはない、置き換え不可能な「ここにしかない」歴史や場所性。それらの要素が作品にも乗り移り、土地の歴史と接続され、より厚みのある文脈が生まれる。

 

常に更新されていく都市部と違い、地方都市のほうがそうした場所は残っており、土地の持つ魅力や文脈を活かすことが、ローカルアートプロジェクトの魅力を大きなものにする。松田は、いちはやく気がついていたのだ。

 

4号倉庫のような場所は、平(いわき市平地区)にはないんです。あったと思うんですが、壊されてしまって思い出せない。私が魅力的な場所だと思うのは、悲壮感のある場所。ゼロから建てるのでもないし、インパクトもないけど、細々とあるものを使っていく感覚ですかね。死にかけているものを、生き生きと見せてあげたいんです。



会場で開催された舞踏のイベント。独特の雰囲気に包み込まれた。
会場で開催された舞踏のイベント。独特の雰囲気に包み込まれた。

 

―幻の企画から考える地産クリエイティブ

 

幻となってしまったが、2011年のアートポート小名浜の企画書を見せてもらった。活動趣旨にこうある。「生活の中に見落とされている地域資源に光を当て、それらの魅力を再発見するとともに、アート、クラフトを媒体に街の魅力を新たな視点から提示し、若く才能あるクリエーターたちの仕事の拠点となるまちの姿をイメージしている」。

 

過去2度の経験をふまえ、非日常的な「ハレ」としてのプロジェクトだけではなく、クリエイターの日常的な「ケ」にも目を向けた要素が取り入れられているのが興味深い。

 

今となっては幻の企画なんだけど、空き店舗に安く入ってもらって、ここから発信していけないかって。ほんと、UDOK.的なコンセプトですよね。アートとは少し違うんだけど、せっかく生まれたいわきの作家との関係も無駄にしたくなかったし、ビジネスに結びつくような可能性を小名浜には感じたりもしてて。震災があって企画倒れになってしまいましたけど、面白い企画だったと思いますよ。

 

熱っぽく幻の企画について語ってくれた松田。
熱っぽく幻の企画について語ってくれた松田。

 

 

 

クリエイターを小名浜の空き店舗に住まわせ、小名浜からものづくりを発信するという「Iwaki Art & Craft Project」という企画がそれだ。さらに発表の場としてアートポートが加わることで、日常と非日常がバランスよく町に組み込まれる。松田の描く、小名浜を拠点にしたローカルクリエイティブの姿だといっていいだろう。

 

「アートポート小名浜をもう1度やれと言われたらやりますか?」と質問をぶつけてみると、「う~ん、そう言われると、もしやるんならこういう感じかな、っていうのはある。グリーン劇場とかでアート的な催しができたら面白そうよね。ローズ劇場とでそれぞれコンセプトを変えたりして。あれってどこが物件管理してるのかな」。

 

松田の頭の中は、やはりアイデアで溢れていた。そして、過去2度のプロジェクトで失敗を経験したからこそ、適度な開き直りと、地域に対する的確な視座を持っているように見えた。幻の企画が、幻のまま終わってしまったことが悔やまれる。

 

多額の助成金が出れば、当然イベントは大型化していく。しかし、その助成が足かせにもなることを、松田は教えてくれた。一方で、地域全体でアートに対する免疫をつけていかないと、アートポートのようなイベントを根付かせるのは難しい。作家の日常に根ざした11年のような企画が必要にもなるのだ。

 

日常と非日常の両面を、町の中にどう作りだしていくのか。幻となってしまった11年の企画に、地産クリエイティブの目指すべき1つの道が示されているような気がする。そして同時に、松田たちのような限られた人任せではアートは地域に根付かないということも、過去2度の失敗の教訓として、頭に刻み付けておきたい。


(終)