‐追憶‐ ここには砂浜があった

Re:write vol.17 / text Kumako

 

小さい頃から、海辺の町に住むことに憧れた。仕事の異動先が小名浜に決まった時は、朝晩砂浜を散歩する自分を真っ先に想像して、本当に嬉しく思った。

 

それから4年弱を、大好きな小名浜で暮らした。夜明けの永崎海岸に通った。大好きな海、大好きな町、大好きな人たち。思い出は数々。そんな小名浜を、こんなにも心配する時が来るなんて。あの頃はかけらも想像したことはなかった。

 

 

3月11日。現在の勤務先、栃木県那須塩原市で会議中だった。那須は震度6弱。尋常でない揺れに血の気が引いた。手も足も震え出す。駐車場に避難して、車のボンネットにしがみついた。

 

脳裏には、映画の様に崩れるビルや地割れをおこす光景が思い浮かんで、私はただ『もう止めてー、お願いだから!!いやぁぁ!!』と叫んでいたと思う。周囲の民家のブロック塀が崩れる音、人の叫び声、ガラスの割れる音、もう家族と生きて会えないかもしれない、と思った。

 

その後も強い余震が続いた。何度試みても家族とは連絡がとれない。帰宅する車の中でラジオを聴いた。

 

『大津波警報…』

『予想される高さは7メートル以上…』

 

 

実家は倒壊してるんじゃないか…海…ガラス張りのアクアマリンは…小名浜のみんなは…そのあたりからの記憶が、錯綜している。幸いにして、家族も家も、知人も無事だった。けれど、地元の白河市では土砂崩れによる生き埋めの事故が発生し、15名もの方々が亡くなった。

 

都内にいる弟が、友人からの物資をかき集めて、帰省してくれた朝があった。その時、初めて笑ったように思う。20年以上繋いでいなかった父の手を握って、余震の中を逃げたこともあった。原発の問題…。見えない不安の日々が始まった。放射能に脅えながら水を汲みにいったあの怖さは、昔読んだ戦争時の空襲に脅えながらのそれだと、身に起こっている事の重大さに寒気がした。生涯忘れることはないと思う。

 

 

私は震災の後から、できる限り後悔しないよう、見たい物を見て、会いたい人に会って、伝えたいことを伝えて、暮らしていこうと決めた。専門的なことは、その分野の人に導いてもらうけれど、脆くなった自分自身は自分で奮い立たせていくしかない。

 

自分が憧れた人たち、皆に愛された人たち、そんな特別な存在になれないであろう自分が好きになれなかった。けれど。あれだけ生きるとか死ぬとか毎日考えた結果、私は自分自身の人生が、この時間が、いつの間にか特別なものになっていた。

 

小名浜に暮らした事も、今まで起きた人生の出来事も、この2011年を乗り切っていくためにあったんじゃないか? そう思えた程、今までの試練に感謝したくなったし、納得できた事でいっぱいになった。

 

そしてこれは、冷静に、誤解のないように言わなければならないけれど、私は、素で、震災に、感謝している。『ありがとう!嬉しい』ではなく、日本人特有の、『すみません、ごめんなさい。ありがとう』に似た感情。ここまで窮地に立たされなければ…日々の幸せに気付くことができなかった、愚かな自分への懺悔も込めて。

 

 

今の私には、泣くほど嬉しい事がある。泣けるほど、感傷に浸れる時間もある。これを抱いて暮らしていこうっていう思い出がある。気持ち次第で、人はいくらでも、幸せになれる。

 

たくさんの犠牲を払って、大切なことを教えてくれた東日本大震災と、私は今日も明日も、ずっと生きていく。生かされているってことを、忘れないって誓いを立てて。

 

 

2011.7.19 up

profile  Kumako

1976年生まれ。白河市在住。外食産業につとめる会社員。06~09年、転勤により小名浜・愛宕に居住。心の糧は音楽。『伝えたい・奏でたいアーティスト、陶酔の眼差しのファン』をラムを舐めつつ眺める時間を愛す。

 

 

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