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僕が青学の講義で話したかったこと

posted on 2011.5.31


 

5月24日、青山学院大学総合文化政策学部のエリア文化論の授業で、ローカルメディアについて話をしてきた。これまで考えてきたことをまとめるための、いいきっかけとはなったものの、実際の講義ではテンションが上がってしまい、解説しきれなかったことも多くあった。そこで、改めてここで、新たな考えをプラスしながら、記事として紹介してみたいと思う。

 

そもそもこの講義、「ART RE-PUBLIC TOKYO(※1)」という有志の団体が企画したもので、「エリアから考える新しい文化の姿」をテーマに、さまざまなゲストが講義を行っている。企画に参画しているクリエイティブジャーナル誌『SOMEONE’S GARDEN(※2)』の西村大助氏、津留崎麻子氏のおふたりから声がかかり、この貴重な場に参加させて頂いた。


今回のエントリーを書くにあたり、記述の内容を大きく3つにわけた。まず最初は、「ローカルの魅力」。マスメディア出身の僕がどうしてきわめて局地的な「小名浜」というローカルに可能性を見出したのか。上海で取り組んできた雑誌編集での体験を中心に、ローカルが価値を生み、世界に広がっていく「仕組み」について解説していく。


2つ目には、ローカルでもっとも重要視される「人の力」について考えた。誇るべきモノがないといわれる日本の地方では、個々の「人」の中に眠る価値を掘り起こすことが欠かせない。それをどう掘り起こしていくのか。そしてそれをどう膨らませていくのか。帰国後に立ち上げた『tetote onahama』での体験をもとに考えていく。


そして最後に、自分なりに「つながり」というものを考察してみた。最近注目されている山崎亮氏の「コミュニティデザイン」の手法とも近似性があるだろうか。「自立」と「つながり」の関係を掘り下げていきながら、魅力的な地方のあり方にも踏み込んで、ローカルメディアを作ることの楽しさや、これからの将来のことを提案してみたい。


僕自身、コミュニケーションやまちづくりなどについてアカデミックな研究をしてきたわけではない。しかし、僕がこれから書くことはすべて、「実際に経験してきたこと」、「今まさに行われていること」であるから、机上の空論、というわけでもない。「実践的方法論」として、これから地方で活躍したいと考える人たちの一助になればと考えている。

 


※注1 『ART RE-PUBLIC TOKYO』は、アートの力でパブリックを見直し(RE+PUBLIC)、世代やジャンルを超えたつながりの中から新しい文化の種を植えていこうという有志の団体。映像作家・丹下紘希氏を中心に、さまざまなクリエイター、アーティストなどから結成されている。


※注2 『SOMEONE'S GARDEN』の2人とは、上海で出会った。ちょうど、2009年の皆既日食があったときで、2人は、上海でアートマネジメント事務所「Office339」を主宰する鳥本健太氏を取材中だった。僕はまさにその鳥本氏がオフィスを構える威海路696号で日食を見ていた。その出会いがこうして今、別の形を結ぶということに運命を感じずにはいられない。

 


アジア最大の経済都市、上海。そのイメージを体現する陸家嘴経済開発区。
アジア最大の経済都市、上海。そのイメージを体現する陸家嘴経済開発区。
筆者がリニューアルを担当した誌面。表紙をかなりシンプルにイメチェンした。
筆者がリニューアルを担当した誌面。表紙をかなりシンプルにイメチェンした。

 

上海で任された、情報誌のリニューアル


2006年6月、僕は福島のテレビ局を辞め、上海へと渡った。最大の理由は、自分自身の「どんづまり感」を打ち破りたかったからだ。東京に行くという手もあったが、「伸びしろ」が少ないことも実感していた。3年間のハンディキャップもあったし、「新しいことを始めるには前任者の多い東京では不利だ」と僕は考えていた。

 

一方、日本の高度経済成長以上の速度で発展し続ける上海。そこにはきっと、確かな「成長」と、それを加速させる多くの「スペース」があると信じていた。会社を辞め、東京の日本語学校へ通い、日本語教師の資格を取った。日本語教師を選んだのはさまざまな理由があったが、当時一番簡単にビザが取れる仕事だったからだ。

 

日本語教師の契約が終わると、何冊か発行されていた日本語媒体の会社に入社。記者経験あり、ということで、はじめは硬派なビジネス雑誌を担当したが、半年で生活情報誌へと異動となり、間もなく、その生活情報誌の誌面づくりのすべての権限を持つ「副編集長」扱いとなった。このスピード感は、日本ではなかなか考えられない。

 

僕が任されたのは、『SUPERCiTY SHANGHAi』という日本語フリーペーパーだ。教育機関、医療機関、ライフラインなど、上海で暮らす日本人に必要な生活情報に加え、レストランやショッピング、夜遊びやレジャー、昨今需要が高まっているエステなどのビューティ関連情報も取り扱う、いわば「マス」向けの情報誌といえる。

 

当時の誌面は、長期契約のクライアントが多く、定番情報ばかりが代わり映えしないレイアウトに落とし込まれていた。スタッフの新陳代謝も少なく、それが長年踏襲されていたのだ。社内で、「そろそろリニューアルしてみてはどうだろうか」という声が起きるのも時間の問題だった。僕は、そのリニューアルの責任者に任命されることになる。

 

 

老上海と呼ばれる、ローカルな町並み。筆者はこちらのほうの上海に、価値を見いだした。
老上海と呼ばれる、ローカルな町並み。筆者はこちらのほうの上海に、価値を見いだした。

 

−上海の二面性

 

海外からなだれ込んでくるヒト・モノにあふれ、都市やサービスがますますグローバルに標準化される上海。贅を尽くした大型デパート。通りに集まる世界の有名ブランド。あらゆる欲望を満たす不夜城。そこに、「外灘」に代表されるレトロな町並みが組み合わさり、モダンとレトロが交じり合う上海を作り上げる。多くの人が知る上海だ。

 

一方で、急激な発展の奥の路地には、のんびりと、ほのぼのとした上海もある。古い団地にひしめき合うように暮らす人たち。その壁を器用につたい歩く猫。マージャン卓を囲むおばさんたちや、そのとなりの古びた食堂。そうした人間味のある「ローカル」的上海も、僕の大のお気に入りだったし、上海の大きな魅力だとかねてから考えていた。

 

大都市は得てして「消費」のマインドを刺激するように形作られている。きらびやかなデパートが林立し、世界的なブランドショップが通りを埋め尽くす。膨大な数の広告が都市空間の細部にまで至るさまは、世界の都市で見られる「共通の景色」ではないだろうか。上海新天地のレストランと、銀座の高級中華のレストランと味に大差がないのと同じように。

 

ローカルでは、消費よりもむしろライフスタイルや地理的条件から多くのものが生まれ、今も息づいている。海や山、川などに密接に結びつくそれらは、「そこにしか存在し得ないもの」だ。大多数が認める価値ではないが、だからこそ、自分たちの視点を活かせるのではないか。リニューアルにあたり、そんな気持ちが強くなっていた。

 

広告の売上を考えれば、当然、前者の上海を強めるべきところだ。後者の上海を追い求めた日本語媒体も過去にはあったが、売上を確保できず廃刊となっていた。しかし僕は、情報をローカル化することで何が生まれ、どう伝わっていくのかということが知りたかった。どうせ契約は切れる。ならば、大胆に「実験」してやろうと。

リニューアル後の「上海アート特集」。前述の鳥本健太氏(左)、アーティストの南孝俊氏(右)。
リニューアル後の「上海アート特集」。前述の鳥本健太氏(左)、アーティストの南孝俊氏(右)。

 

−深く刺さるローカル

 

リニューアル後の特集は、大胆なものが多かった。「中国の調味料特集」では近所のおばちゃんの味付けを取材した。「上海のアングラミュージックカルチャー特集」では地元のDJたちを、「上海アート特集」ではアーティストを追った。「上海トイレマップ」を特集した時は、度の過ぎた悪ふざけだと感じたクライアントの不評を買い、契約を破棄されたこともあった。

 

結果は、予想通りあまり芳しいものではなかったが、実験はまずまずの成果を得ることができた。既存の情報誌に飽きた一部読者からの反響がすごかった。「生活に役に立った」というより、「上海の新しい一面がわかって面白かった」という感想が多かったのも興味深かった。ローカルな情報を、面白がってくれる人はたくさんいたのだ。

 

特に興味深かったのは、誌面をウェブに転載した情報に、海外からもアクセスがあったことだ。欧米諸国に住む人が、上海の裏通りの路地にある食堂の情報を知りたがっている。マニアックな、そこに住む人しか知らないような情報こそ、受け手に深く刺さり、グローバルに広がるのかもしれない。「ウェブマガジン」の可能性を感じさせるできごとだった。

 

一方、こうした「ローカル路線」では大型クライアントを捜すことが難しく、印刷コストを捻出できないため、マスの紙媒体としては難しいこともわかった。しかしそれは、言い換えれば、個人でお金をかけず、自分のできる範囲で、ウェブを主体に情報発信をしていけば、個人の視点を活かした特徴的で面白いものができる、ということも意味していた。

 

僕の視線は、ふるさとのいわき市に向いていた。いわき市は面積が広く、1人では全土を取材するのは難しい。では、それよりひとつ下のカテゴリである「小名浜」をテーマにしたウェブマガジンはどうだろうか。それなら、自分1人で、自分の視点で、情報を発信できるのではないか。2009年、かすかな野望を胸に、僕は小名浜へと帰った。

 

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text & photo by Riken KOMATSU


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